アンコンシャス・バイアスの本質を考える

アンコンシャス・バイアスは「無意識な歪み(の思考)」をいうわけですが、歪みという言葉から極端に間違いとかネガティブなイメージを持って認知される方が多くいらっしゃいます。確かにバイアスは直訳すると「歪み」とか「偏見」となりますが、実際のバイアスは「自分的には常識」「自分的には正論」と思っていたことが実は社会通念や倫理、そして摂理からズレていたといった、とても日常的な内容が殆どと云えます。

そしてそういった通念は枠組みの前提によってもズレとなってしまう場合もあります。例えば日本では常識であった通念がグローバルでは違っていたといった場合です(良く云うグローバル・スタンダードです)。こういった問題を扱う場合で最も難しいのは、世間的にはバイアスと認知されることが、自分の中ではアイデンティティに突き刺さるレベルでスタンダード(標準)になっているような内容の場合です。

 

最近ツイッターの中で非常に顕著なアンコンシャス・バイアスの事例があったので2つほどご紹介させていただきましょう。

『私は小学3年生の頃には開成の算数の入試問題で100点を取れる子供だった。小学校の算数の授業は退屈なので毎回本屋さんで買った教材を解いていた。するとある日先生に「君だけ違うことをしていたら周りの友達がどう思うか考えなさい」と怒られた。』

 

『以前就活セミナーで「1番じゃないとなかなか名前は覚えないよね?日本で2番目に高い山知っている?」と話を振られて、真面目に「北岳です」と答えたらえげつない空気になったので、それ以来忖度で知らないと答え続けています。』

 

これらは日本の集団主義社会で日常的に起きる出来事です。社会生活を送っていく上では「人と足並みを揃えるのが第一義である」という決めつけや思い込み。まさにグローバルから見れば、アンコンシャス・バイアスの典型です。それを未だアイデンティティが確立される直前の子供に刷り込んで初期設定してしまう学校教育。これでは世界の中で頭角を現す人材など出るはずもありません。

また、社会で目立つにはトップでなければ頭に残らない、という一見集団の中に埋没することを戒めるようなアプローチをしながら、上から目線を喝破されたときに無意識に反応してしまう「目立つな」的な圧力。矛盾以外の何物でもありませんが、これが現実に起きるアイデンティティに食い込んだレベルでのアンコンシャス・バイアスの実状です。

アンコンシャスということは単に無意識というよりも、それが日常的前提になっていて罪意識がない空気のようなレベルで認知されている想念や価値観ということです。中でも「何が悪いのか」を証明するために比較として示せる基準的な社会通念が曖昧な中での想念を修正するのはとても困難です。法律は最低の倫理であるというのが法律学の基軸ですが、その法律ですら様々な解釈の余地があるくらいに倫理に関する価値観という世界は定義が難しく、それ故にそれがバイアスなのか、ニュートラル自体が不明確なままに話を進めていくことは隘路に嵌まってしまうことになりかねません。

そういった中で縺れた紐を解きながら、「最大多数の最大幸福(マクロ・ウェルビーイング)」を熟慮して、人同士の関係をエンゲージメントし直し新たな定義を設けるのがアンコンシャス・バイアスの真の活動と云えます。ともあれアンコンシャス・バイアスは大義として「自分の想念が過ちである」ということに気づくことから始まる新しい社会づくりと云えます。そう、「あなた、どこかでその過ちに気づいてほしい」です。

 

最近頻発していることとしてこのような話題があります。「匿名で責任を持たない誹謗中傷が悲劇を生み出す」といういわゆるSNS禍の一つです。とある飲み会に参加したAさんは、そこでとても好印象に見える女性と出会いました。そして徐々にお酒が回ってきた頃、「ユーチューバーの動画にアンチコメントを送るのにハマっているんですよ~」とその女性が語り始めたのだそうです。

しかも「そのユーチューバーのことは好きでも嫌いでもない」し、「ただのストレス発散で寝る前のルーティーン」なのだそうです。そして「私のアンチコメントにグッドがたくさん付く」などということまで平然と話し出す始末だったそうです。その姿を見て、Aさんは愕然としてしまったそうです。Aさんは「怖すぎます。その様な振る舞いを武勇伝のように語って聞かせる精神が本当に怖い」と評しています。

Aさんの意見には、「ストレス発散するなら誰にも迷惑かけずにやってほしい」「“アンチを気にするだけ無駄”と遠回しに教えてくれた、実はいい人なのかも知れませんね」などと多くの反響とコメントも寄せられたそうです。

Aさんは「その子は本当に身なりもきれいで、人間関係も問題のなさそうな子で。この子はいったい何を言っているのだろう、目の前のイメージと話が噛み合わない。何がこの子をそうさせたのだろう」とそればかり思っていたそうです。そして「人間誰しもが持っている承認欲求が、おかしな方向に働くとこうなってしまうのかな、と思うととても怖かった」と語っていました。

ネット上での心無い誹謗中傷によって、最近では芸能人が死を選んでしまったり、SNSで活動の幅を広げるYouTuberやクリエイターが苦しめられたりするケースも増えています。Aさんの事例はこういった現状に重要な警鐘を鳴らしています。Aさん曰く、「匿名で何の責任も持たずに発言ができる時代だからこそ、こう言った心無い行為が平然とできるのだろうと思います。

全く本人に悪意がありません。誰しも実際に目の前にいる人に向かっては、そうそう暴言は吐かないじゃないですか。彼らには画面の先に人がいることや、事態がどう向かうかなどが、全く想像できていないのだろうなと感じます。本当にどこかでその過ちに気づいてほしいです」。

 

こういった事例もあります。4歳直前で母親の結婚を機に日本にやってきたというアフリカ生まれのBさんの話です。日本語もバリバリ話せるのに、何も事情を知らない人には必ず英語で話し掛けられ、新たな出会いを経験するたびに自身の事情を話すことがルーティーンになっているそうです。幼い頃から周囲の人々が無意識のうちに抱く“思い込み”や“偏見”に常に向き合ってきた好例です。本当に社会は思い込みや勘違いで満たされています。

例えば、運動会の短距離走で、彼女が3着だったときのことです。周囲からは「アフリカの子が負けた?」「調子が悪かったのかな?」といった反応があったということだそうです。「黒人全員が、超人的に運動神経がいいわけではないんです!」とBさんは云います。『私たちの社会は思い込みや勘違いで満たされている』ということの好例です。

 

それにしてもこういった思い込みや勘違いを生み出す偏見、アンコンシャス・バイアスはどういった時に生じるのでしょうか。これを知るには2つの視点への理解が必要になります。1つは原体験における初期設定です。日本では物心という言葉を使っていますが、アイデンティティを構成する自己観念の在りようです。例えば地域の慣習概念とか宗教観念、親による初期学習といった顕在的なものから、感情形成に影響した経験のような潜在的なものなどがこれらを形成します。個人主義志向とかネガティブ思考といった日常の価値判断に反映されます。もう1つが先入観や第一印象のような生理学的な反応です。

先入観や第一印象は共に最初にどういった想念を思い浮かべたか、組み立てたかという発想の起点です。人は心理的に一番最初に発想したことを基軸としてその後の論理を組み立てますが、基軸だけにそれ自体を崩したり、まして否定したりすることはすべてが崩れることにも繋がるので保守しようという本能が働きます。まさに生理学的な反応です。

最初のイメージを正当化することを前提として、また正当化するように思考を続けます。ですから最初の印象がある意味すべてを決するといっても過言ではありません。例えば最初に「嫌な奴だ」と印象付けられると、その後に様々な良い面を見ても印象はなかなか好転しません。またさまざまな良い面自体に目が向かないというデメリットも起きてきます。そうしてお互いに大きく損をするとか時間を無駄にするといったことが至る所で起きています。皆さんにもそういう経験はありませんか。

 

これはあまり良い事例ではありませんが、こういった第一印象から生じるバイアスを逆手にとって自己利益を得る手口として結婚詐欺があります。結婚詐欺師は初めにイメージを錯覚化させるために、徹底的に好印象付けを演出するそうです。そしてそれが先入観になるまで地道に徹底させるそうです。そうするとその後どんなに悪辣非道なことをしても騙された方は、相手を疑うとか不信になる以上に、自分の先入観を保守しようと自分を偽ってまで自己正当化を図って拘泥していくのだそうです。真の詐欺師は捨てた後も「何か理由があった」と信じ続けられる状況を作り出すのだそうです。いや恐ろしい話です。

このように人は最初に印象付けた自己概念を正当化しようと様々な情報を肉付けしていく習性があるわけです。だからこそ初期設定は恐ろしいわけです。それが自分の中でアイデンティティ化すればするほど無意識化されていくわけです。後天的なバイアスを避けるには、ともかくクリティカル思考を徹底させることです。そしてエビデンス・ベースの思考をすることです。

しかし原体験的なバイアスのトリートメントは労力がいります。特に原体験的なバイアスには情動的な感情が深く絡んでくるので、幾ら知的にアプローチをしてもなかなか絡んだ紐は解けません。この関所を超えるには感情の理解と、バイアスに絡む自己感情の在り様に対する自覚が求められます。その際押さえて置かなければならないのは、生理学的に起きる防衛機制の存在です。

防衛機制とは生理的に自分の心理状態をストレスから排して安定化させようとする自己保身の本能です。一旦防衛が生じると自己変容や自己拡大はほぼ不可能になります。自己の枠組みを保守しようとする条件反射のようなものですから、自己防衛が発動すると、自己防衛自体に気が付かなくなるという二重のアンコンシャス・バイアスが働き始めます。まさに自分が見えなくなるわけです。

その時に人の在り様を支配するのは思考ではなく身持ち、つまり感情です。従って自己防衛が発動するような心の問題を機動させるには、原体験に突き刺さる情動的レベルでの感情をマネジメントすることが重要な焦点となってきます。感情抜きに防衛機制をコントロールしたり、バイアスのトリートメントをしたりすることは不可能です。また感情を主題とするときに、孤軍奮闘的なアプローチは逆効果を引き出すということも押さえて置かなくてはなりません。

アンコンシャスの真意は感情の在り様に気が付いていないということです。他の人は悲しいのに自分は楽しいとか、他の人は傷ついているのに自分はそれがわからないといった、人として共感的に発露されるはずの喜怒哀楽といった感情が意識的にズレていることこそがバイアスの本質です。つまりバイアスが起きている人は、感情が他の人とズレていることに気が付いていないか、ズレていることを自ら求めているということになります。そういった人が自らの力だけでそれに気づくということはあり得ないことは自明です。こういった感情が絡む領域に変化をもたらすには、他者との間に生じる力学(空気の力)を活用する以外に手はありません。

人は思考のみならず意気をエンゲージメントとした関係的な中で、お互いにアイデンティティを示しながらウェルビーイングを得ようとする存在ですから、意気を作り上げる素材である感情を変異させたり再組成したりするには、他者の力を借りるのが一番です。それもグループとしての集団力によってバイアスに影響する感情をニュートラル化するようにトリートメントしていくのが最も効果的です。

 

そう自分のバイアスをトリートメントするには、まずは他者との間でその認知や空気感を活用しながら、自らの意識やそこに繋がる感情の在り様に気が付かない限り実態としては何も始まりません。幾ら頭で知的に理解をしても動きは起きないのです。アンコンシャス・バイアスをマネジメントするには、知的領域としてバイアスというものの存在に気付くことも大事ですが、それ以上に感情的領域から自らのバイアスに対する意識の在り様をコントロールすることが求められます。

様々なところでアンコンシャス・バイアスは人間関係やストレスにおいて弊害を生み出しています。せめてグローバル・スタンダードとしてトリートメントしていかなければならないバイアスや、社会や自分が生き残るために邪魔や足かせになっているバイアスに関してはきちんと目を向けてトリートメントに取り組んでいかなくてはなりません。人種問題や性問題といったエビデンス・ベースで全く瑕疵がないにもかかわらず、因習や隠れた特権保持のために社会的な歪みを生み出しているバイアスに関してはなお更強くそれを感じます。

 

さて、皆さんは「ソモサン」