• 小さな歪みが積もり積もって集団で捏ねられ、そして正義の暴走や虐めとなっていく

小さな歪みが積もり積もって集団で捏ねられ、そして正義の暴走や虐めとなっていく

「みんなが悪いと云っているから悪いんだ」。周囲の声からそう思い込んでしまい、自分で証拠を確かめもせずに批判の声を広げてしまう。そういった「正義の暴走」が社会を殺伐としたものにし、人間関係をネガティブ基調なものに仕立て上げていきます。

 

例えばこういった出来事がありました。Aさんは普段は仲の良い同僚のBさんから時々弄られることがあったそうです。日頃は流していたそうなのですが、ある時気にしていることを云われたので、思わず「それは違うよ」とちょっと荒げに反論したのだそうです。いつもと違うAさんの反応にBさんは腹が立ったようです。

「Aさんから酷いことを云われた」と周囲の人たちに胸の内を明かすと、「Aさんが酷いことをした」という言葉だけが広がっていきました。「本当は違うのに」と思ってもAさんは引っ込み思案が災いして何も云わなかったそうです。そうこうしていると「酷いことをしたのに謝らない」という話が一人歩きをし始め、そして徐々に膨らみ始め、Aさんは孤立無援の状態に陥ってしまいました。思わず近いと思っていたもう一人の同僚に「本当は違う」と訴えても、「今更言い訳がましいよ」とその人からも責められ、だんだん出社が出来なくなっていったのだそうです。

 

ここで着目したいのは、「みんな大して悪いわけではない」ということです。最初に「酷い」といったBさんも特段自己正当化というわけでもなく自分が感じたことを口にしただけです。他の人たちも、「自分が正しい」と思って反応した。もう一人の同僚も周囲の声を信じた。しかし、こうして人数が増えることによって、一つの見解が「正しい」とされてしまい、「正義が暴走」し始めるのです。大人数が主張し始めると内容の如何を問わずそれが「正しい」になる。それが「正義の暴走」です。

後日Aさんに聞くと職場に行けなくなったのは「職場のみんなが嫌いになった」のではなく、「職場全体が怖い」と思ったからなんだそうです。そう、心が傷つくと癒えることはあっても身体のように治ることはありません。そしてこの場合誰も自分が悪いとは思っていないし、事実誰も悪意ではありません。ではこういった場合どうすれば良いのでしょうか。

それは必ず「両方の話を聞く」ということです。場合によっては中立的な人を交えて客観的事実的に聞くということが大切です。特に「みんなが云っているから正しい」ということではなく、きちんと両方の話を聞いてから判断をするということが絶対条件だということです。特にこういったことは幼少期の教育が大事です。これが癖づけられている人といない人ではその後の人生に大きな影響が出てきます。

「人を傷つけても平気な人」と思われている人の多くは実は悪意ではなく、こういった思いやアイデンティティに歪みのある人の過失からもたらされることが圧倒的なのです。むしろ善意による正義の暴走によって悲劇が生み出されることの方が多いように思えます。三つ子の魂百までも。判断力に歪みがある人は本当に不幸です。こういった人はこのような事態が自分の身に降りかかったときに「誰も悪くない」とは中々思えません。その意思が葛藤的にウツを生み出したり、他者への憎悪による相克を生み出したりすることにつながるのです。

 

人は誰しも「勘違い」をします。こういった残念な人間関係的な出来事は勘違いから発生することもこれまた多いと云えます。勘違いは主に思い込みが後押しをします。それは身贔屓なアイデンティティのように強いものから外見的な決めつけのように弱いものまで様々です。実はこれこそが我々が訴える「アンコンシャス・バイアス」と云われる歪んだ意識がもたらす事象なのです。

アンコンシャス・バイアスの始まりの多くは勘違いです。そしてそれが集団圧力によって次第に正当化され、暗黙裡に正義となり、やがて暴走をし始めるのです。そうなると後には引けません。今更勘違いとは云えません。いやむしろ人間は認知的不協和(現実と思いが違った場合、思いを現実に合わせて自分のアイデンティティを修正してしまう)を解消するために、端から勘違いではなかったと記憶の修正をしてしまう心理特性を持っています。

こうして巷では誰もが悪意を持たず、むしろ善意で、むろん自己防衛などどこ吹く風のごとく他人の人生に土足で立ち入り、公然と苛めやハラスメントを行うのです。それも一人ひとりは非力を訴えながら集団的心理暴行を加えるのです。本当に恐ろしい話です。皆さんは如何でしょうか。自分にはそんなことはない。自分は冷静だ。自分は常に公正だと言い切れますか。マスコミの情報に踊らされ、一方的な情報で、偏った肩入れをしていませんか。

 

昨今、芸能人に不倫離婚報道が喧しいですが、片方を聖人扱いする報道は違和感を感じざるを得ません。例え取った行動は良くないにしても、何故そのような行動に至ったのか。本当に原因は片方の悪意だけなのでしょうか。これは両方の声を公正に聴いた上で判断しなくてはなりません。大体夫婦問題など外からは分からない。触れるだけ失礼です。

最近では、二度目の離婚によって最初の離婚では持て囃された方にも性格的な問題があったと報道されることも出てきています。最初の方もそうだったとすれば叩かれた方は災難です。本当にマスコミはマスゴミに成り下がってしまった感がありますが、こういった事象を見る限り、私たちの中にもかなりのアンコンシャス・バイアス、歪んだアイデンティティが潜んでいるように思えます。そして塵も積もれば山となる。集団力は侮れません。

もしも誰かに非がある場合でも、その人の話も聞いてみなければ理由が分かりません。責めるだけではなく、問題解決をしてこその未来創出です。ポジティブ基調での人間関係作りであり、潤いある社会づくりです。お互いの意見を聞いてから考えて判断する。これこそが正義暴走の歯止めです。意識しないとなかなか難しいアンコンシャス・バイアスの打破です。是非皆さんも真摯にお考え下されば幸いに存じます。

今回は盆休みということもありまして、短めにお送りさせて頂きます。