• コロナ禍における若者の行動を通して私たちが今やるべきことを改めて考える

コロナ禍における若者の行動を通して私たちが今やるべきことを改めて考える

東京では日々200名を超える単位での罹患者の状態で、4月の時の増加傾向を大きく上回り、最早第二次と表現した方が良いような様相を呈しています。但し死亡率はかなりの少数状態で、明らかに第一次とは異なる様相であることも確かです。

それよりも私的に危惧するのは、最近の罹患者の70%を超えるのが30代以下という圧倒的な割合の状況です。前回、地域差で生じる温度差のことを話題にしました。人間に入る情報は目や耳だけでなく五感的な体感情報があります。よく暗黙知と称される知識もこの情報と密接な繋がりがあります。こういった情報は体感の積み重ねによる経験知も生み出します。

「年の功」とか「長幼の序」といったことが貴ばれるのはこの知識が大きく関係しています。そしてここで育まれた知識はそれを有する人と有さない人との間に地域差と同じように温度差を生み出します。世代差が生む温度差です。

 

人間は自ら「生きている側面」を持っていますが、同じくらいに周りの人々の知識や力によって「生かされている側面」を持っています。人間が存在しそして成長発展して行けるのは「生かされている側面」の影響が大なわけです。先週「現代人は自然に対してまで制せれるもの」という大きな錯覚を持ち始めており、それが今回のコロナ禍での物心での迷走を生んでいる、という内容を紹介させていただきましたが、これこそが体感や経験による暗黙知の喪失がもたらしたことの一端を示しています。

私が幼少期の頃は、道はまだ舗装してありませんでした。車だけでなく馬車なども往来しており、田畑には牛もいました。また三種の神器は出始めでかなり高く、一般家庭には常備されていませんでした。テレビは白黒のブラウン管で10件に1つ位。夕方、見に行かせてもらった経験もあります。洗濯機もなく、たらいでゴシゴシやっていましたし、お風呂は薪で焚く五右衛門風呂です。そしてトイレはいわゆるドボチョンで、時折スリッパを落として叱られていました。

友達が川や池に落ちて溺れ死んだり、虫下しを飲んだり、至る所に肥溜めがあったり、と常に危険と隣り合わせでした。ある時は買った犬がジフテリアで死んだり、日本脳炎が恐ろしいと云っても蚊を避けるのは蚊帳と蚊取り線香だけだったり、クーラーなどありませんから開けっ放しです。河川は護岸工事が行き届かず台風毎に氾濫の脅威で夜を過ごしました。そう、私たちの原体験は常に災害や災疫に対して十分な防止策が整わない中で、死と隣り合わせで過ごしていました。それが当たり前だったわけです。

 

おそらくは前回のオリンピックを契機に国が富み、そういった恐れはどんどんと無くなっていったように思います。そして大阪万博を経て1980年以降に生まれた人たちはそういった原体験はなく、それにつれてそういった五感情報もなく育った人たちになっているのでしょう。それでも1990年代位の人たちは体験者から一次情報的にリアルな経験談を耳にしながら疑似体験的な感覚を持って物事を捉えていたのでしょうが、2000年以降の人たちは最早二次情報となり、死とは何か重篤と何かといったことが身をもって分からなくなっているのだと思います。

確かに今回のコロナ禍は概ね若者と云われる30代以下の人たちには害が少ない病です。しかし全く無害ではありません。それでもこの災疫に対して無感覚な人達は、まず体感的経験のなさがもたらす無知が起因していると云えます。ですから自らを律したり、我慢をしたりするという防波堤が非常に低いわけです。

人には「正常性バイアス」という、自分にとって都合の悪い情報を無視したり過小評価したりしてしまう歪んだアイデンティティがありますが、これが「自分は大丈夫」「今回は大丈夫」「まだ大丈夫」と反応させてしまうのですが、これを避けるには2つの要素が必須になります。

 

一つは後述しますが論理的な思考力の保有、そしてもう一つが判断の材料となる経験情報、体験情報です。これが防波堤です。現代の30代以下は後者が非常に脆弱なわけです。そして残念なことに、核家族化によって現代の若者は先人から二次情報を学習する機会をも失っています。またネット社会によって体感という五感的経験も失っています。火は翳してみなければその熱さは分かりません。画面の火はどんなに業火でも温度はないのです。

このことは、同時に「長幼の序」という人間社会の礎も破壊してきています。教えの場がないということは教えることや教えられることの意味やその重要さが分かりませんし、敬愛や畏怖といった感情も生まれて来ません。ましてその重要性が認知できない世代が積み重なり自分の子供を「友達」などと称する輩が出て来始めると社会秩序のための規律や統制は破綻してしまいます。これは社会が有事のような窮迫不正になった時に露呈することですから、経験のない人たちに幾ら弁じたところで詮無い話と云えましょう。

人間にとって「楽なのが一番」なのは感情的に確かです。しかし社会活動をする人間にとって全員がバランス良く「楽」であることは不可能です。人間には「欲」があり、必ず「楽」は個々の中で増幅し、何処かでせめぎ合いを始めるからです。一見自分が楽を享受できていると思う場合、必ずどこかでそれによる負担を担っている存在がいるはずです。目の前で苦難を体験し、周りと協働し援け合うことで乗り越えた経験のある人たちは「利他」の本質や「我慢」の意味を体得しています。

その経験のない人は「生きる」ということの重さが分からないだけでなく、「生かされること」の重さも分かりません。先人の苦労や遺産が分からなければ先人を敬うはずもありません。ネットなどで体感する身の回りの狭い人は、多くの先人の苦労を推察する力もありません。こうして「自分の生きる権利」には敏感だが「他人の生きる権利」には鈍感な利己人間が増殖していきます。

今回のコロナ禍は60代以上にとっては死に直結する災疫です。その人達は、これまでを作ってきてくれた先人達でもあります。今の暮らしの基盤を作ってきてくれた人です。そういった人たちに敬意が示せない、感謝が沸かない、つまり「生かされている側面」が分からない一部の若者がコロナ禍を蔓延させる原動力になっているという話です。報道の限りですが、発生源は夜昼問わず多くは酒が絡む、酔ってはしゃぎ回る、大声で唾を巻き散らす集まりを生み出す場所です。マスクを外すことが前提のような場所ばかりです。これは確信犯と云っても過言ではないでしょう。

でも60代過ぎも覚悟は必要です。こういった30代以下の教育を行ったのは60代以上です。今の政治家を見れば火を見るよりも明らかです。自らが巻いた種は自らが刈り取るしかありません。開き直ろうが身を縮めようがそれは個々の自由ですが、若者ばかりのせいにするのではなく、自らの行いをいい加減に扱った罰は正面から享受しなければならないということだと思います。

~頭が良い人、悪い人~

ところで、若者へのコミュニケーション不足が生んだ情報無知の創出という結果は結果として、もう一つ今後に向けて若者が考えなければならない、また年長者が再度徹底しなければならないことがあります。先週ネットで面白いコラムを見つけました。その題名は「東大生が断言『頭が良い人、悪い人』決定的な差」です。

筆者は偏差値35から東大を目指して必死に勉強しているのに、まったく成績が上がらず2浪してしまった西岡壱誠という方です。彼は、思い悩み、東大に受かった友人たちに「恥を忍んで」勉強法や思考法を聞いて回ったといいます。そこで分かったことは『目の良さ』なんだそうです。

「頭の良い人とは”目が良い人”だ」そうです。それはもちろん単純な視力の問題ではなく、純粋に、目の中に映っている景色がぜんぜん違うということなんだそうです。要は「東大生は『生まれつきの頭の良さ』以前に、『頭の使い方』が根本的に違い、その『頭の使い方』を真似した結果、西岡氏も成績が急上昇し、東大に合格することができた」という話です。

 

彼によると、たとえばカメラで写真を撮ったとき、同じ景色でも、ピントが合っていて解像度が高い写真もあれば、ピンぼけしている写真もある様に、同じものを見ても、頭の良い人とそうでない人とでは、「見えている世界」がぜんぜん違う。例えば、東大生の勉強は、机の上だけでは完結しない。普段、何気ない日常生活を送る中で、そこから学びにつなげるような思考をしている。

具体的には、東大生の友達と街を歩いていると「なんでコンビニはこんなに近接して立地しているんだろう?」「promiseは約束って意味の英単語だけど、それがどうして金融の会社の名前に使われているんだろう?」なんて具合に、日常のささいなことに疑問を持って、学びに活かせるような話をしている。趣味の話をしているときですら、勉強している。同じ日常生活を送っているのに、同じ趣味を持っているかもしれないのに、学びにつながる「目」を持っている人もいれば、そうでない人もいます。

この「目」を持っていないがために、「頭が悪い」という状態になってしまうことだってある。頭が良いというのは、こういう「日常生活のさまざまなところから学ぶ『目』を持っていること」を言うのだ、と主張します。そして彼は続けます。

その為に東大生が日常的に行っているのは、「質問」である。いろいろな物事に疑問を持ち、その答えを探そうと常に考えれば、自然と「目が良くなる」。例えば東大生は授業が終わった後に、みんな教授に質問に行く。「ここがわからなかったです!」「ここって、教授はどういう意見をお持ちなんですか?」などと質問するために、多くの学生が教授の前に並んでいる。彼ら彼女らは、東大に入るほど頭の良い人たちである。

そんなわからないところなんてなさそうな人たちなのに、疑問を持って質問に行っている。翻って、偏差値35だったころの自分を思い返してみると、「へー、そうなんだー」と何の疑問も抱かずに、質問になんて行ったことなどなかった。一見、質問なんてしない方が頭が良さそうな感じがするんだが、まったくそんなことはない。頭の良い人ほど、物事に対して「なぜ?」を考える能力が高い。

逆に言えば、普段から、あるいは小さいころから「なぜ?」と考え続けている人こそが、頭が良い人になれるのではないだろうか。逆に、何の疑問も持たずに、ただ勉強していても頭は良くならない。日常生活のレベルから「なぜ?」と考える訓練をして、目を良くしておけば、少ない暗記量(情報)で対応することができる。そして努力して何かを成し遂げる人は、往々にして同様だと感じる。

自分が偏差値35だったときは、問題を間違えても、普通に「間違えちゃったなー」「気をつけなきゃ!」としか思わなかった。しかし東大生は、そんな風に自分のミスをふわっとさせたままで終わらせることは絶対にない。「なんで、ここで間違えたんだろう?」と深く考えて、「これはきっと、この知識がなかったから解けなかったのだろう」「この問題形式に慣れてなかったからこういうミスをしてしまったんだろうな」などと、自分のミスを次に活かせるように分析している。

「間違いを分析する目」を普段から養う訓練をしていて、そのスキルが身についている。加えて、当時の自分は目標を立てたり勉強の計画を立てるときに、「まあ、とりあえず数学をやろっかな」「今日は英語をやろうかな」みたいな感じで、非常にふわっと目標を設定していた。「今日は何を勉強しようかな」とぼんやり考えていたころは、成績はまったく上がらなかった。しかし東大生は、こういう目標の立て方は絶対にしない。

「自分はどんな目標のために、どんな勉強をすればいいのか?」を考えて、そこから「入試から逆算して、この数学の問題集が必要なはずだ!」「今日はあの英単語帳を100単語やろう」とブレイクダウンする。目標が明確で、それが数値に落とし込まれている。そうして失敗を分析し、目標を明確にし、そのために失敗や目標に対して疑問を持ち、これを繰り返すことで、失敗や目標の「解像度」を高め、そのうえで努力するから、目標を達成することができるのであると綴っています。

 

如何でしょうか。情報が少なくても頭の使い方が優れた人は相応の応えや行動に辿り着けるということです。私的にはそれを続ける根性が必要だということを実体験から思う所です。さてこれをお読みになっておられる皆さんは如何に考えるでしょうか。

上記の西岡氏が云っていることは東大を象徴しただけで、内容は本当に的を射ていると私は考えます。西岡氏の云う頭の良さは知的なレベル以上に、しっかりとした意思(思い)というレベルでの頭の使い方が出来ている頭の良さを指しています。戦前の日本では、こういった頭の使い方ができる人を頭が良いと評価していました。今は違います。

与えられた命題を合理的に分析する、前提に公式(フレーム)が用意されてそれをトレースすることを得意とする知的レベルを頭の良さと云っています。ですから直面する問題を自らの思いで受け止め、探求したり追及したりして理解を深め、抜本的に自分の行動を内省して行動を改変するということが出来ない浅慮な人たちが闊歩する状態に陥っています。

その結果が今回のコロナ禍における若者の行動です。また誹謗中傷や正義中毒者、自警を語った虐めの横行です。鬱もまた自分に向けた攻撃とみれば同じことが云えるでしょう。こういう頭の悪い若者で明日はどうなるのでしょうか。またこういう状態を生んだ年長者はどう責任を取るのでしょうか。何れにしても動き出さなければ何も起きません。

皆さんの中でも賛同される人がいるならば、まず「隗より始めよ」を為さってください。そして是非ご一報をいただけますと幸いに存じます。

 

さて、皆さんは「ソモサン」