• 目に見えぬ脅威に対して未来を作るには、人々の心に再度人という存在への意思を形成する必要がある

目に見えぬ脅威に対して未来を作るには、人々の心に再度人という存在への意思を形成する必要がある

今回のブログは評論家の加藤守通氏のコラムから引用をさせて頂いています。

~擬似的社会の落とし穴~

アンコンシャスか否かを問わず、バイアスが発生するときに最も大きな作用をするのが「体感がない中での温度差」です。例えば今、関東圏でコロナ・ウィルスの感染が再び増加し始めていますが、当地にいる限り皆さん真剣ではありますが深刻にはなっていません。感染予防にも注意を払っていますし、ルールも守っています。一部お構いなしの人もいますが、それは関東の人だけではなくどこの地域にも一定数はいる意思はなく頭が弱い方々です。また皆真剣ですから情報には敏感で、どこが安全かどういう振る舞いが安全かを人一倍気にし、研究して行動をとっています。

一方関西や地方のような離れた圏内に住む方は、五感的な現地感覚がなく想像の拡大、それもネガティブな幻想を働かせて過剰反応をしています。まるで関東人はすべて感染者のような扱いをする人たちも多々いますし、あからさまにヘイト的な発言をしたり差別的な行動をしたりする人たちも頻出しているのが現状です。

そして関東圏においては日常的な行動ですら「移されたくない」だけでなく「移さない」という行動が出来ない未熟な存在の如く表現される人もいます。まるで悪いことをしたかのような対応には、そこに住んでいるだけで罪人の如くの受け止め方を感じます。果たしてそういった人たちの方が余程醜悪に映っているということに自覚がない状況は、本当にうすら寒い昨今の世情を感じます。

 

こういった反応行動の中でも最も見苦しく映るのが「自粛警察」と言われる過剰な反応です。「自粛モラル」は大切で、時にそれを逸脱したり無関心な反応をしたりする人が一定数いるのは確かですし、ある程度諫めることも大切な面もあります。ただそういった人たちの多くの言動や物言いを耳にする限り、それは忠告のような心配りというよりは、他人攻撃による自己正当化や自己満足、あるいは利己的な感情充足という歪んだ心性の方を強く感じるのが実際です。自粛警察もSNSによる誹謗中傷も深層心理としては同類の行動です。

これは自分の人生は恒常的に安定している筈だというバイアスに基づいた生活の基盤的思考が崩れた不安を、他人に苛立つこと、言い換えると他人を攻撃するという最も低次元の防衛規制を働かせることで自らの留飲を下げ、苛立ちを解消しようとする人として「大変見苦しい振る舞い」です。

それにしてもこの様な、いわゆる平常時と云われる日々においてはここまで蔓延することのない歪んだ社会行動が何故蔓延し始めるのでしょうか。

 

新型コロナ・ウィルス感染症によるパンデミック(世界的流行)が始まった当初から、人々は「未知の感染症」がもたらす不安とストレスにあまりに無警戒でした。そのため窮迫に陥った時に、理性が保てず自己保存のための利己第一という本性を曝け出してしまう人が続出しています。これは自らの意思をしっかりと形成して自分の考え方や生き方をきちんと統制することができない人、すぐに自分に陶酔するような心の芯が脆弱な人ほど嵌りやすい所業です。

こういった人は困難やストレスに面するとすぐに感情が高ぶって過剰反応を起こし、社会的存在としての人間性を見失い、平気で他人を傷付けたり、明らかに論理を伴わないバイアス的な言説に振り回されたりして、方々で数え切れないほど多くの人災を振り撒き散らしています。「偏見での差別行動」「デマの拡散」「買い占め」「誹謗(ひぼう)中傷」「村意識的他者排除」等々といった行為が至る所で沸き起こっています。

先進国では非常に長い間、公衆衛生上の危機とはほとんど無縁の生活を送ることができて来た中で、「自然」よりも「人間」の恣意が優先する社会システムが当然になって来ました。まさに「生かされている自分」よりも「生きている自分」が前提となった意識に埋没し、それを無意識下にしてしまう生活を送って来たわけです。

これは終戦の貧困期を知らない層が出て来て以降、世代が若くなるほど顕著になって来ました。しかしコロナ禍でこの前提がいとも簡単に崩れてしまいました。人類と言えどより大きな生態系の一部に過ぎない、といったごく当たり前の事実を改めて突き付けられたわけです。

現在における先進国の近代的な空間は、基本的に人間が管理できるものによって成り立っています。気候による影響は矮小化され、死や病や腐敗といったネガティブ因子はすぐに隔離され、手付かずの自然にはまったくといって良いほど触れることはありません。これを解剖学者の養老孟司は「脳化社会」と呼んでいます。

すべてが人為的に設計され整備されており、「脳の中に住んでいる」のと変わらないというのが理由だそうです。まるで映画の「マトリックス」の様な世界ですが、作られた社会という観点で非常に擬似的だと思います。そして多くの人にとってこれがデフォルト(初期設定)になっているのは確かといえます。

~必要なコロナ的なものへの対応~

イタリアの小説家、パオロ・ジョルダーノは『コロナ時代の僕ら』(早川書房)で、「僕らは自然に対して自分たちの時間を押しつけることに慣れており、その逆には慣れていない」と語っています。それ故先進国社会は瞬時にパニックに陥りました。これまでの常識が一切通用しない「迷宮」が突然投げ込まれた様なものです。

「いつも通りの日常行動」こそが返って感染リスクを増大させ、被害を拡大させてしまうといった不条理による心理的負担や不安の影響も大きいですが、それ以上に何時終わるかも知れない自然の動きから時間を押し付けられる、つまり従わなくてはならないということへの不安やストレスに心が追いついて行かない人が頻出し始めたのです。

発生が認知されて以来既に半年、第二波が予測される中、最早「感染症はすぐに消えるだろう」という楽観的な予測は、これまで常識であった「人間中心のものの見方、考え方」から生じた願望に過ぎないことは明白です。その願望には「自然は人間の恣意に従うべし」という支配欲求があります。

 

社会学者のジョック・ヤングは『排除型社会 後期近代における犯罪・雇用・差異』(洛北出版)で「現代の根本問題の多くは、各人が自律性と個性を保ち、社会的圧力や歴史的伝統、外来文化、生活技術の巨大な圧力に押しつぶされたくないと思うことから生じている」と語っています。これは現代の人間は、「自分のことを自分で決められること、自分の人生を自己決定できていてアイデンティティの感覚が得られることに意義を見いだす存在」であるということを意味しています。そこから導かれる価値観が自己尊厳のベースにもなっています。

ところが人間一人ひとりが持つ「自律性と個性」というものは、現代社会を支えている物理的なインフラとそれに基づく生活や慣習が問題なく恒常的に維持されていることが基本前提になっています。「人間の恣意」が保障されていて初めて得られるという不安定なものです。その様な条件下で自然に立ち向かうべく人間の不自由な心の拠り所を安定させる為に、為政者はその身の上を簡潔に説明してくれる言葉を民衆に与えようと働きかけました。いわゆるアナロジー(類比)としての「戦争」という定義づけです。

世界は「ウイルスとの戦争」の真っただ中にあるという恣意です。例えばフランスのマクロン大統領はテレビ演説で「我々は戦争状態にある」と表現し、アメリカのトランプ大統領は「真珠湾攻撃よりひどい」と第2次世界大戦時の被害を引き合いに表現しました。医師は軍医に、入院患者は戦傷者に、野外病院は野戦病院に例えられ、イギリスでは医療従事者をたたえる肖像画を描く「従軍画家」までが登場したそうです。

しかしながらコロナ・ウィルスや自然に恣意はありません。自然界の法則に従って活動しているだけであって、人類に攻撃を仕掛けているわけではありません。そこにあるのは「戦争」でも「戦場」でもなく、ただの冷徹な自然現象のプロセスなだけです。にも関わらず、そこに「戦争」といった定義づけを為政者や民衆といった人間がしたがるのは、即興的にでも何とか人間の恣意で管理できる状況を作り出したいからに他なりません。

しかし自然という相手は大き過ぎます。一時凌ぎの定義づけのような戯言で問題解決するはずもありません。そういった中での諦観がもたらす防衛機制が「転嫁」です。叶わぬことへの憤りを、叶うと思えることへ転嫁させることで心を凌がせようとする行為です。例えば「上にへいへい、下にこらこら」といった腰巾着的振る舞いは、単に攻撃対象が自分にならないように身をかわす狡さだけではなく、勝てないものに対する憤りをどんな理由にせよ(他力本願)勝てると思える相手にぶつけるといういじめの構造そのものです。そしてこういった恣意はアンコンシャス的にも、いや寧ろアンコンシャス的に働きます。

 

今回のコロナ禍における「ウイルスに」ではなく「人に」苛立つという傾向はその顕著な兆候です。「コロナヘイト」というものが世界的に取り沙汰され、日本でも同様の事態が起こるとともに「自粛警察」「マスク警察」と呼ばれる奇妙な人々が続々と現れました。ウイルスは目に見えませんし、暖簾に腕押しです。

他方、感染した人や規律を乱す人は反応を返させることが可能な存在です。要は実際に感染している人か、実際に自粛を守っていない人かどうかの問題ではないと云うことです。為政者が「夜の街」が危ないといえば、途端に「夜の街」の人々を不安視し、ネガティブ感情のはけ口にします。「東京」が増加していると云うと東京周辺に在する人たちを丸めて一括りにして不安視して、「全員がばい菌」の如く感染源の様に扱います。そして悪の権化の様に見立てます。ウイルスの脅威を抑えることは出来なくても、人々の動きに干渉することは容易なことだからです。

心理的な抑圧から逃避するために「身近にある干渉可能な対象」に怒りという感情をぶつけることで、あたかも状況に対処できているかのように思い込もうとするわけです。意が醸成されていない人特有の悲しい話です。そして若い人ほどネットでの誹謗中傷問題を起こしていることこそ、その典型的な事象になっていると云えるのではないでしょうか。

 

今後も「新しい生活様式」や「ニューノーマル」に適合しない組織や人々を告発する「ニューノーマル・ポリス」がうねりとして起こって来るのは間違いありません。作家のスーザン・ソンタグは『隠喩としての病い』(みすず書房)の中で「この世に生まれた者は健康な人々の王国と病める人々の王国と、その両方の住民となる」と語り、更に「人は誰しもよい方のパスポートだけを使いたいと願うが、早晩、少なくとも或る期間は、好ましからざる王国の住民として登録せざるを得なくなるものである」と語っていますが、人は今後も「コロナ的なもの」と付き合わざるを得ないのは確かなことです。

「アイデンティティを持って生きる」とか「社会的存在としての利他」と云った哲学的な意思を幼少期から教育されていた時代においては、人は困難や窮迫な状態に耐える力を持っていました。力とは利己的な感情を抑え込む力を指します。今そういった教育がない中で今回のような事態が起きた時、流れとして利己心による他人攻撃が噴出することは必然だったと云えます。

私はこの厳然たる事実を受け止めた上で、ジョルダーノのいう「自然に対して自分たちの時間を押しつける」思考について真摯に内観した上で改めて自然と共生する生き方、そういった中での社会生活の在り方などを再構築して、そのレベルから心理的間問題解決に取り組まなければ、単なるもぐら叩きが続くだけで、ストレスは高まる一方になり、引いては戦争などで自滅するだけの人類未来が待っているものと考えています。

特に哲学レベルの低いのが現政権です。目先に囚われ、コロナ禍に対する温度差を利用して県同士を争わせることから自治権を国に集中掌握しようとする姿勢はまさに現場を知らない坊ちゃんの思想です。このような施政に社会を委ねるような態度の面からも、人としての意思の啓蒙が求められる時代に入ったということを意識しない限り、誹謗中傷や自粛警察は問題視されることなく看過され続けるでしょうし、ストレス社会はいずれ破裂するものと憂いるばかりです。

 

さて、皆さんは「ソモサン」