• アンコンシャス・バイアスやダイバシティは差別への対応ではなく、人類の人間性 再定義に対する活動なのです

アンコンシャス・バイアスやダイバシティは差別への対応ではなく、人類の人間性 再定義に対する活動なのです

ソモサンは掲載のほぼ1週間前に脱稿させるのですが、時々のトピックスとタイミングが合わないときもあります。今週のソモサンもそういったところがありますが、一般論として読み進めていただけると幸いに存じます。

 

ここの所「利他」と云う観点から、西洋から根底の思想観抜きに押し込まれた個人主義と云う概念が及ぼした昨今の日本人の行動様式について、知と情の両面からコメントを認めさせて頂きました。自己概念(self-concept)はアイデンティティ(identity)と一体に実存を担う心の柱と云えます。

その為こういったことは日常では通念として無自覚に発動しています。そこに悪気も何もありません。寧ろ動物的実存として「自分は正しい」という自己肯定感から「善意」として認知される場合が殆どと云えます。しかし人間十人十色と云われるように、自分の概念が即ち他人の概念と等価であるとは限りません。自分にとっては「アイデンティティ」であっても、他人から見ると「バイアス(偏見)」であることの方が多いと云えます。

西洋のように民族的宗教的に価値観が多様な人たちが混合された社会においては、人と人との関りにおいてそういったことへの気遣いは前提になっていますが、単一色の濃いそして長い間鎖国的な行動様式にいた日本人にとっては自らの集団主義的な行動自体が無自覚に当たり前の認知になっているために、そういった心構えがグローバル社会において様々な摩擦を生む端緒になっています。

そして戦後のGHQ主導による自由主義教育の一方的な刷り込みによって、年次が若くなるにつれてこれまでのアイデンティティとの齟齬がどんどんと拡大し始め、ジェネレーション・ギャップの原因にもなってきています。

 

最近「アンコンシャス・バイアス」という言葉が注目され始めましたが、バイアスと云う言葉を安易に「偏見」と訳すには危険が伴います。「人を殺すな」とか「人のものを盗むな」といった前回紹介した自然法や実定法から導かれる倫理や道徳を外すような概念や考え方に基づいたある意味絶対的な偏見はいざ知らず、多くのバイアスは偏見と云うよりもアイデンティティの違いから相対的に生まれる認知のズレが生み出す摩擦の方が圧倒的に多いからです。

この相対観は、個人単位もあれば集団単位もあります。地域単位や組織単位、国単位、そして民族単位や宗教単位でも発生しています。

 

例えばアンコンシャス・バイアスを単純に「自己防衛心」をもって説明しようとする声も聴かれますが、それだけでは最近起きている「自粛警察」や「正義中毒」は説明できません。正義感はその人が生まれ育った環境や原教育によって刷り込まれた倫理観や道徳観が前提となった思い込みに、自己肯定感からくる「自分は正しい」という思い込みが重なった気持ちや思いが原動力です。そのため「火中の栗を拾うことも辞さない」といった自己奮起した能動的な行動すら伴います。防衛の様な守勢な気持ちや思いだけではないのです。

この最たる世界が「ダイバシティ&インクルージョン(D&I)」です。今世界で最も注視される「D&I」は「人種」と「性差」ですが、どちらも単に平等とか対等と云ったレベルの発想では解決しません。平等と云った言葉には、それ自体の中に差別が内在しているからです。同一と平等は違います。初めは違ったものを是正するのと、初めから同じものを歪めた(バイアス)のでは前提が大きく違うわけです。前者は自尊観という優劣的な自己防衛心が基軸となりますが、後者は違いに対する認知のズレが価値観となって固定化されている世界なのです。

私はニューヨークの自然史博物館が大好きで入れれば1週間でも居たいほどですが、先だってこの自然史博物館でこれまでにない動きがありました。自然史博物館にはセオドア・ルーズベルト元大統領の像があるのですが(これはナイト・ミュージアムという映画で故ロビン・ウィリアムズが演じていました)、この像の撤去が報じられたのです。その理由はレイシズム(差別の象徴)です。

私もそれこそアンコンシャス・バイアスで気が付きませんでしたが、彼の像を良く見ると馬に乗った大統領の右横に先住民(所謂インディアン)、そして左横に黒人が立っているのです。名目は3民族の共存ですが、明らかに立ち位置は白人優位の象徴です。これまでキング牧師などを中心に何度となく差別撤廃の運動がされてきたのですが、今回の「ブラック・ライブズ・マター(Black Lives Matter)」の運動は明らかに性質が違います。多くの大学でも、例え昔の功労者であっても差別を肯定していた人の像は撤去する動きになっています。あの名画「風と共に去りぬ」ですら配信停止です。

 

象徴的なのはセレブの責任として巷間に積極的に発言する俳優さんたちです。その中で「警察は白人にとっては安心だが、黒人にとっては恐怖だった。私は今までそんなことすら考えていなかった。私は私なりに黒人とは平等で問題は貧富だと思っていたが、黒人たちの生活は貧富に関係なく偏見にさらされ、日々命の心配までしていた。私はおろかだった」と発言していた女優の声は衝撃でした。

黒人の人たちは出かけるときは数十メートル先のコンビニに行くのさえ正装に着替えないと警察に狙われるというのです。そういった現実をあらゆる人が認知してこそ、そして誰もがそのようなことをアンコンシャス化出来てこその同一なわけです。これこそがアンコンシャス・バイアスの本質なわけです。欧米では今ようやく平等ではない、同一としてのダイバシティの動きが始まろうとしている予兆を感じます。

 

一方日本はどうでしょうか。日本には差別はないと放言する無知蒙昧な輩もいますが、そんなわけありません。特に「大東亜共栄圏」による翼賛体制の時は酷いものでした。黒人に対しても、それこそ織田信長の家臣だった弥助のような人が日本に来た時代の方が平等だったのではないかと思うほど、学校では陰湿な虐めが横行しています。無教養な子供だからでありません。そういう子供がいるということはそういう親がいるということです。

表の顔と裏の顔を使い分けて平等ぶってはいるが、本音は違いを受容できずに差別をする。日本人の場合は自尊観の場合が大きいように思えますが、いずれにせよ差別に疎い、差別に目を背ける集団主義の国民性は本当に是正しないと世界から相手にされなくなっていくことは必定です。

 

そしてその日本において最も歪んでいるのが性差別です。先週32歳にもなるタレントが記者会見で堂々と「お客が女を連れてくるといったので、自分も連れて行った。その時コロナをうつされたくないので、家にいた女を選んだ」と放言しました。マスコミは「相手からうつされないの前に相手にうつさない配慮だろう」と叩いていたが、それ以前に女性を自分のファッションの如く扱う性差別に対するアンコンシャス・バイアスには胸糞が悪くなる思いでした。こういった愚か者はどうして育つのでしょうか。

所属した会社の責任もありますが、やはり親の教育にも問題があると思わざるを得ません。ところがマスコミは、彼のその親(どうやら母子家庭らしい)に対する態度を「優しい」とか「親孝行」と評します。男尊女卑する人間を優しいと評する世界。これこそが差別に対する無自覚の典型です。差別が前提の平等。同一のようにそれ自体が疑問にならない世界とはほど遠い世界です。

力仕事が前提の世の中では男性が優位であったこともあったでしょう。そこから男社会が始まります。女性を無学にし、心理的優位を築くことから、戦う自らを慰めた男社会。しかし今や力は機械に代替されています。そして女性も無学ではありません。下から這い上がるのは人間として前向きのエネルギーですが、引きずり降ろされるのは面白くありません。しかし現実は容赦ありません。それが今の覇気を無くした男達の実情なのではないでしょうか。

上位である根拠など無くなったのが現代です。だからこそ、力の無い愚か者ほど女性を押さえつけようと空虚な抵抗をするわけです。最近好感度の高かった芸人が、美人女優と結婚後に女性問題を起こしましたが、これなど自分の妻の人気に対して、作り上げた自分の虚像の無力さに怯えた劣等感男の男尊女卑的依存症かもしれません。実際のパートナーに物申せず、女性と云うよりも愚かな人を梃に自分の優越感を保とうとした哀れな姿は不倫の価値もありません。しかし今後はこういった人が増えていくのではないでしょうか。

 

今や男女と云う存在の在り方が変わろうとしている歴史的な転換期であることも確かと云えます。人種問題もそうですが、ダイバシティ―は差別の様な優劣観を大きく超えたコスモポリタニズムの観点から捉えていかなければなりません。21世紀は心や精神の時代になると云われました。今人類は、人間性の再定義が求められる状況にいるのだと私は見ています。

 

さて、皆さんは「ソモサン」