• 利他心は考えの帰結ではなく、共感という感受性を発する思いの中にあります

利他心は考えの帰結ではなく、共感という感受性を発する思いの中にあります

先週ジャーナリストの高橋氏のコラムから「有名税を口にする大学生の言い分」を取り上げて、やや「知」側の観点から「自分の考えの帰結や自分の考えの前提を熟考することの出来ない今の若者の思考力の有り様」に言及しましたが、感情的側面を内包した「意」と云う観点から見るともう一つ大きな歪みが隠れていることが浮き彫りになって来ます。それは「人の痛みを感じる」と云うことです。

 

今回のコロナ禍において日本人の美德として、また文化としての「集団主義から来る他者への配慮」と云うことが世界、特に欧米で取り上げられました。これまでも主張させて頂きましたが、日本人は東洋的な思想観や集団主義思想観の元で「利他の精神」が心底に刻み込まれています。しかしながら昨今の若者の発言を耳にする限り、その利他の精神がどんどんなくなっている感がするのです。

今回のコロナ禍において最も重要であった感染拡大抑止ですが、「移らない」と同時に「移さない」と云うことがセットで存在していました。特に若者は多少移っても体力的に対抗ができるのですが、幼児や高齢者は死活に繋がります。若者は移ったところで大したことにならないと云う軽い気持ちが出てくるわけですが、死活の人たちに事は深刻なわけです。この場合「移さない」が非常に重要な意味を持って来ます。そういった利他の精神が大きく欠落し始めているわけです。

これは理屈による理解ではなく「共感」という感受性が大きく影響して来ます。今、日本の若者に「共感」とか「利他の精神」とった集団活動に対する基本思想、ある種自然法的な思想が欠落し始めていることが危惧されます。こういった思想観は実存的要素を数学的な論理で組み立てることから想像を起こすといった今の「知」による学習では得る事はできません。より包括的な「意」としての人類の英知から発せられる「教え」に導かれる想像性の学習がないと啓発は叶わないのです。

 

西欧では神との契約による「個人主義」が前提です。それが差別を生む元になったり、自己責任の強調をもたらしたりしていて、日本人の感覚との違いを醸し出していたりしますが、西欧では西欧なりに集団が維持される様に神がもたらした自然法的な契約に基づいて利他的な世界を実現させています。そしてそれは今でも教会の教えなどを通して守られています。それは奉仕の精神や、自己開示や討論による相互理解などです。

日本の様な「あ、うん」とか「ツーと言えばカー」といったコミュニケーションや「顔色を伺う」といった状況を避け、問題解決に専心します。まさに死活に直結した砂漠から生まれた思想観の民と云えるでしょう。

西欧では学校の単位にボランティアの参加が必須になっていますし、例えば自動車学校でも学科や実技だけではなく、公民といった他の人たちへの道徳が単位に組み込まれています。ですから欧米の人は公共への奉仕には非常に積極的です。個人主義とは本来そういった考えで、利己主義とは根本的に違います。

ただヘイトやレイシズムなどは神との契約自体が「予め来世の救いに選ばれし民か、否か」という救霊予定説の影響による建前と本音といったようなアンコンシャス・バイアスが大きく絡んでいますので、一元的には論じられない面があります。しかし何れにしても西欧人はそのルール下に置いて自分達なりの利他の考えを持っています。

※救霊予定説:ジャン・カルヴァンによって提唱されたキリスト教の神学思想。

 

省みるに日本人はどうでしょう。戦前は曲がりなりにも学校教育では修身を教えていましたし、武道によって武士道や儒教の教えを、また寺院などでの説法で仏教的な教えを伝えていました。何よりも大家族の中でお爺さんやお婆さんが礼儀も作法も、そして道徳も伝授して来ました。それもその時に応じて臨機応変に体感的に仕込みました。

特に父性の役割は非常に大きなものでした。良く父性は「許さない、けじめの性」であり、母性は「許す、慈しみの性」と評されますが、片親に育つと時折この面への偏りを目にすることがあります。自分に厳しすぎる、自分に甘すぎるといった点で落とし所がわからないバランスを欠いた人がいて、伺うと偏った育てられ方をしているという状況に立ち会うことがあります。

さらに加えて親自体がその親から社会教育を受けておらず、子供を偏愛して品格的な教育を施していないがために、学歴は高いが品格に問題がある(意に歪みがある)といった人と行き合うこともあります。こういった人は人としての根っこが体得出来ておらず、なまじ賢いが故に自分が知る知識や世界の範疇で理屈的に分かったような気になっており、人によっては最早注意してくれる人もおらず、「勿体ないなぁ」「残念だなあぁ」ということがあります。

悲しいかな現代はそういう人たちがマジョリティ化して、箴言する私の方が変わり者、口煩い人となって来ているようです。

 

ここに西洋的教育と共に中途半端な西欧思想、個人主義思想がメディアを通して入って来ます。心の芯も軸も持たないアイデンティティのない処に利己主義と紙一重の個人主義が来た場合どうなるでしょう。拝金主義や利害中心主義の台頭はしかるべき結果といえるわけです。こうしてお互いに利他が体得出来ていない人たちが跳梁跋扈しているのが今の日本人の有り様ということになります。先の大学生の発言などはその一端といえるのでしょう。

こういった合理に偏った、誤った自由を強調する日本の若者の出現は、資本主義に基づく個人主義を教えたはずの欧米人にとっても奇異に映ってきます。自分を育て守ってくれた社会や組織に仇なして自由や責任なき権利のみを主張する若者。そしてそういった行為を是のように祭り上げる若者や思想なきマスコミ。

このようにして、古くからある日本の文化や思想を尊重する欧米からの来訪者が理解できない日本の若者の振る舞いが、世界に誇れる日本の心の豊かさ、思いやりや助け合いを疲弊させていっているわけです。彼らに悪気はありません。あまりに「意」や「思想観」に無知無学なだけです。無知な親や無関心な社会から大事な思想観の醸成が手抜かれ、結果として殺伐として無味乾燥な社会が荒野のように広がっていっている現代。私は「これは亡国に繋がる大変な事態である」と確信しています。特に日本人の場合、利他心は国の資産です。

 

私も、頭の出来は申し分ないが利他心が欠落した若者と一時期仕事をしていて、その余りの利己主義に唖然とした経験があります。親は経営者であったりして経済的には申し分ないのですが、その親自体が甘いとか人に関心がないとかいった偏った生き方で、それがまともに子供の思想観にも現れているわけです。

本人的にはアンコンシャス・バイアスです。それが当たり前と思い、自分に疑問さえ湧いてきません。私の言なども他人事ですし、心の琴線に引っかかりません。結果随分とお客さんが離れ、信頼を失いました。それでも彼らを信じようとした私に残ったのは負債ばかりという笑い話です。組織や周りを引っ掻き回しても本人はその自分の行為自体に疑問が湧かない。それが「意」が持つ深い力です。歪んだ「意」偏った「意」の力は相当なものです。

 

そして最も着目しなければならないのは、こういった「意」という領域の啓発は、「体感」を持って為さねば、しっかりと心に刻み込めないということです。出来ればタイムリーにhere & now(今ここ)でやるのが理想です。何故ならば、「意」は「感情」という瞬間的な熱量が伴うからです。感情は動的な力です。

知と意の関係同様、情と意は一体的ですから、知だけをチャージしても意は成り立ちません。五感的に体得する行入的な学習が「意」の啓発の鍵です。古くから「修羅場のみが人を育てる」という言葉の真意はここにあります。

少なくとも講義型のアプローチ、ましてやリモートによっては「意」の啓発は胡魔化しにしかなりません。今、最も「意」の啓発、「意」の形成が求められる環境下において、コロナ禍によってその対極の状態にある各企業や組織。せめて人や組織に対して、今、何が一番必要かだけは見誤らないようにしてもらいたいものです。

 

さて、皆さんは「ソモサン」