• 自然法という人間社会の基本的な概念から正義や差別を考え、意識改革の必然性を認識しましょう

自然法という人間社会の基本的な概念から正義や差別を考え、意識改革の必然性を認識しましょう

~脆弱な思考風潮への危惧

以前にも話題にしましたが、SNSで次のようなコラムコメントが掲載されました。題して「亡くなったのはかわいそうだけど、”有名税”を肯定する大学生の言い分」です。

このコラムでは「匿名性が人の攻撃性を高めるだけでなく、有名人だから誹謗中傷も許されるという誤った認識が問題の背景にある」と捉えて文章を綴っています。書いたのはITジャーナリストの高橋暁子氏です。彼女は何人かの大学生のヒアリングから最近の若者の「意」の在り方に関して特筆すべき視点を上げています。まず歌手やタレントといった著名人への誹謗中傷は「有名税だから仕方ない」という捉え方です。

彼らは「注目されるほど仕事にいい影響があるのだから、ファンや芸能記者に追いかけまわされたり、恋愛や不祥事が報じられてプライバシーが制約されたりしても、それは税金と同じで納める義務がある」という見方をしているらしいということです。テレビでもタレントたち自身の中にもそれを口にする人がいることは私も目にしたことがあります。

しかしその声には何か違和感を覚えます。それは「人間の尊厳」という社会秩序における基本精神の存在です。そういった何か肝心なことが抜けてしまった「意」において大学生の声が紹介されます。

最初は「ほとんどのシリーズを見ていて同番組のファン」という大学生の話です。 彼は「亡くなったのはかわいそうだけど、アンチがいるのは注目されている証し、と考えてほしかった。ネットの言葉なんて無視すべきだと思う」「正直、何故番組が責められて中止になるのかわからない。続きが気になっているのに見られないなんて残念すぎる。地上波は無理でもネット配信できないんですかね」と発言します。

次に女子大生の発言です。 「知らない人にきついこと書くのはよくあることですよね。ネットの書き込みは気にしすぎるとキリがないと思う。若いし、かわいそうだったけど、気にしなかったらよかったのにとは思いました」 。彼女の場合は、自身も中学生の頃に悪口をネットに書き込まれたことはあるそうです。しかし彼女は「最初は落ち込んだけど、気にしないふりして無視していたら、ターゲットが変わり、それ以上書き込まれなかった。だからみんな一度くらい書かれたことあると思うけど、きつくても気にしないことで乗り切れる」 と語っています。

 

しかし報道の如く最近のテレビ絡みの特に有名人への誹謗中傷は桁が違います。またそこに、更に匿名というよりも全く関係のない人たちからの単なる悪感情のはけ口という強烈な無責任な悪意が加わってきます。匿名は反撃がないことからくる解放感や無縁性からくる無責任感によってより攻撃性が高くなることが知られています。

そして鬱憤晴らしのための他人の誹謗中傷を繰り返すことだけでなく、不安感や不満感をすり替えたり、無知などでのバイアスに凝り固まったりしたことによる歪んだ正義感で、少しでも悪いところがあると見て取った相手ならば容赦なく攻撃するということも加わってきます。また群集心理によって、他の人が書き込んでいればさらにその傾向は強くなり、行動に集団圧力的な拍車がかかってしまうことがほとんどです。

一般にこういった行動は教育不足がもたらす無教養による無知蒙昧な未成年者に多いのは確かなのですが、私が危惧するのは先に上げた大学生と云った「知」には長けているはずの人々のコメントです。

自分の考えの帰結や自分の考えの前提を熟考する力もないのかと嘆息する思いですが、高橋さんのコラムでもそれを親に指摘すると、その親自体が「芸能人は皆我慢している。あなたもイメージが悪くなるから無視した方が良い」と子を叱責するどころか開き直るというのですから、この問題に関する社会の思考停止状態は既に40代50代にまで到っていることが伺えます。本当に公権的に名誉棄損などで逮捕でもされない限りそれが分からないのは悲しい限りです。

今回起きた女性レスラー事件でも、相手が自殺して初めて自分の行為に気が付いた人や、それでも保身的に逃げ惑う輩がいる状態です。被害者を高ストレスに追い込みながら、「困っている反応が面白かった」とか、狭い了見での正義感で「悪い奴を懲らしめてすっきりした」という加害者の脳レベルの問題は「知」における思考的脆弱者に遡及点があるのか、道徳観や倫理観といった感情的抑止を伴った「意」における脆弱者に遡及点があるのか、しっかりと見極める必要があります。

意は確かに知が集積され組み合わされてできた存在です。しかし人間が、細胞が集積され組み合わされた存在であるにもかかわらず、それを要素分解して再構成しようとしても生き返りはしないように、有機体としての意はそれ自体でシステム的に一つの要素として機能する存在です。そういった「意」の中に「判断基準」があります。先週はその判断基準について洋の東西における「意」を支える価値概念の違いに触れましたが、その顕著な発露として「自然法」という世界があります。今回は自然法の概念から意や差別に関するバイアス心理に迫ってみたいと思います。

~意を自然法から考える

「自然法」とは、事物の自然本性から導き出される法の総称です。つまり自然法は人間や事物の本性を基礎として行いを規定する存在です。この概念を人間社会に置いて使用する場合、多くは「倫理」と意味内容が重複してきます。自然法には、原則的に以下の特徴が見られます。但しいずれにも例外的な理論は存在します。

1.普遍性:自然法は時代と場所に関係なく妥当する。

2.不変性:自然法は人為によって変更されえない。

3.合理性:自然法は理性的存在者が自己の理性を用いることによって認識されうる。

前回紹介したように、「意」の在り方がキリスト教の自然法論に依拠する西洋の場合「神が人間の自然本性の作り手として想定しています」から、「自然法の究極の法源は神」と云うことになります。このことは理性にもあてはまり、神が人間に理性を与えたことが強調されるときは、合理的な法としての自然法の究極な法源もまた神となります。

最も有名なものにモーセの十戒などがあります。東洋においても仏教の戒律(五戒、八戒)、イスラームの シャリーアがあります。自然法に対立するのは実定法です。実定法とは、人為により定立された法又は特定の社会内で実効的に行われている法で、人定法とも呼ばれます。

 

さて、自然法は「人を殺すな」「人を騙すな」「人のものを盗むな」「淫らに姦淫するな」「嘘をつくな」といったもので、洋の東西を問わず大同小異です。ここで重要なのが小異の部分で、地域性によって「戒め」に対する視点に差異があるということです。その一つに「正義」があります。

正義とは、倫理、合理性、法律、自然法、宗教、公正などに基づく道徳的な正しさに関する概念ですが、儒教では正しい行いを守ることであり、人間の欲望を追求する「利」と対立する概念として、「悪」すなわち、わるく・劣り・欠け、あるいはほしいままに振舞う心性を羞(は)じる心と捉えていますが、仏教も儒教を基礎に正義を捉えています。

一方キリスト教では、罪の対立概念として、他者に対して義(ただ)しく、誠実で、偽りのない態度で臨むこと、またそのような態度が可能である魂の状態を云います。そして真に義であるのは神のみであるが、人間は神を信じることにおいて義さに近づくことができる。信じないことは不義と同義であると捉えています。

 

つまり、東洋では正義は生きる基準として誰しもの心に自然法的に存在するものとしていますが、西洋では正義は神のみが持つもので人は神を信じる中でそれに近づくという考えになっています。このことは東洋が悪事は「ねばならない」絶対的な概念であるのに対して、西洋では「仕方がない」相対的概念であるという大きな食い違いを生み出す源泉になっています。

それが過ちへの捉え方や差別への捉え方に繋がっています。ですから西洋の考えをいきなり東洋人が持ち込むのは大変危険が伴います。国際化で西洋偏重になっている面があちこちに見られますが、盲信や盲従は混乱の度を高めることに繋がります。

 

ではどうすれば良いのか。まずは東西の違いを見極め、バランスを取る「意」を身に付けることです。どちらが良い悪いではなく、自分の中に判断基準を持つことです。最近アメリカ籍ではあるが、生まれてから30年日本に暮らすタレントさんが、それこそ基準も持っていない輩から日本国籍と云うだけで「日本人感を出すな」と揶揄される恥ずべき誹謗中傷がありましたが、これこそ日本人感のない輩の所業と云わざるを得ません。

「では一体あなたは何をもって自分を日本人と云うのだ。あなたのそのような行為は日本人が風土的に育成された正義ではない。まず自分が日本人であるという証を見せてみよ」と断ずる以外ありません。それ位今の日本人は「意」を無くしてきているわけです。「意」の教育を怠った末路と云えます。

実際、欧米の差別の問題は、自然法の捉え方と云った世界観からしてすごく根が深い問題です。建前上、市民としての基本的権利や就学・就労に差別はないことになっていますが、差別は社会の中に厳然と存在していて、ある意味社会の仕組みに組み込まれています。

女優のナタリー・ポートマンが「これまでの警察の恩恵は白人のためであって、黒人には脅威であった。それ自体に気が付かないほど白人は差別に対して無意識的であった。白人は警察が全ての人に正義と思っていた。これは自分を含めて恥ずべきことである。」と発言していましたが、現在の「ブラック・リブズ・マター」を未だに「黒人だけでなくすべての人だろう」とリベラル然として口にする机上論者が一杯いるのが現状です。

特に日本人はそうです。人種間の収入格差、職業の違い、住む場所、就学、社会的地位、社会の指導層に占める割合、言い出せばキリがありません。これはアメリカだけの話でありません。イギリスでも、黒人・アジア人・他のマイノリティがイギリスの人口の13%を占めるのに対して、有力者の割合を見ると、その数字はわずか3.4%しかいないのが実態です。

差別意識は(本人が意識しているか無意識かに関わらず)人々の心の中に深く刻み込まれているわけです。差別されている側が毎日のように感じていることを、差別している側はわかっていないってことがはるかに多いのが現実です。だから、普段はなかなか表面化しないわけですが、今回のアメリカのような事件があると、それが一気に表に出てきて、大きな問題になるわけです。

ところが日本は誹謗中傷事件に拘泥し、マスコミは肝心なことは何も伝えようとしない平和ボケの状態です。ジェンダーを含めダイバシティ(多様性)に関して云えばかなり遅れています。会社組織など、その意思決定は相当にトロくて全然進んでいません。

 

今こそスキルや「知」ではなく、「意」に目を向けて「意識改革」を推進していく段階に日本も来ていると私は確信しています。本当に国際社会に乗り遅れないように、それこそ自分は「知」があると思う人ならば、真剣に自分自身や周囲における「意」のあり方を考えて貰いたいと思います。

 

さて、皆さんは「ソモサン」