• 改めて人の活動を支配する中核である『意』と云う存在を考察していくに当たって 思うこと

改めて人の活動を支配する中核である『意』と云う存在を考察していくに当たって 思うこと

~洋の東西における思想観の違い

皆さんはティク・ナット・ハンという人をご存じでしょうか。ダライ・ラマ14世と並ぶ代表的な仏教者であり、アメリカの黒人差別問題に関する指導者だったキング牧師に多大な影響を与え、キング牧師の推薦により1967年度のノーベル平和賞の候補にもなった人です。南フランスにプラムヴィレッジ・瞑想センターを設立し、瞑想法によるマインドフルネスを西洋に広く普及させ、ハーバード大のジョン・カバット・ジン博士に「マインドフルネス認知行動療法」を創発するきっかけを与えた、現代のマインドフルネスの開祖ともいった人です。

彼の基軸は「上座部仏教」という禅の源流である東洋思想にあります。その後彼は主に臨済宗の考え方で活動をしています。その彼が以前このような言を口にしたことがあります。

「西洋では世の起源は神が『光あれ』と云った瞬間に始まったと教えています。しかし東洋ではその時神と光の間で実際には次のような会話が為されたと考えられています。光が問います。『光があるには闇が要ります。闇と一緒に光は出でたい』。神は答えました。『闇は既にそこにある』。すると光はこう言いました。『ならば光も既にそこにあります』」。

これは東洋思想の根底を語っています。闇があってこそ光はある。二つは表裏一体の中で相対として二つで一つを為しているのである、ということです。闇を消せば光も同時に消えてしまいます。ものごとは本来分けられない全体の中で有機的に繋がった存在であって、そこに属する様々な要素は二極で語られるものではありません。

実存は個の在り方と同時に個同士の間とその均衡の在り方を外しては語れないということです。ハン師はこれを「インター・ビーイング(ティク・ナット・ハンの造語、相互依存・相即と訳されている)」と称しています。

私は宗教家ではありませんので、こういった思想観が、宗教によって生み出されたのか、はたまた哲学観によって生み出されたのかということは分かりません。ただどちらにしても西洋が要素還元主義という哲学観によってものごとを二元に分けて考え、物心も分けて考えるのが前提なのに対して、東洋は構成主義という哲学観を前提に物心も一体として一元的に考えるということで、東西では思想の根源が全く異なっているということは間違いありません。このことは知情意における「意」に大きな影響を及ぼします。

 

心における「意」の最も大きな役割は「判断基準」を生み出す「価値観念」です。物事に対して何をどのように認知するか、何をどのように識別するか、また何をどのように判断するか、といった人の思いの在り方を決める基軸です。持っている情報を結集させて一定の論理を構築させる「知」もこの「意」によって思考の流れを方向づけられますし、好き嫌いや感情の起伏と云ったエネルギーの源泉たる「情」の在り方も「意」によって統制されることになります。

そしてそれらは言動と云った動きによって実存化され、様々なコミュニケーションやリレーションと云った働きを生み出し、それが成果を積み上げていくことになります。

当然、心の動きを支配する「意」に影響する哲学観や思想観が異なるということは、物事に対する見方や捉え方も異なってくるということを意味します。そしてそういった異なった思考は歴史の中で体系化され、それぞれ独自の文化や行動様式を生み出していき、そこから導き出される具体的な思考や行動は異なる社会において様々な相克を生み出していきます。

比較文化論における人類学では、東洋と西洋の思想や哲学の違いを置かれた自然の在り方で分類しています。世界の人類史が四大文明を発祥源としているのは周知のことですが、西洋におけるエジプト・メソポタミアが砂漠地帯であるのに対して、インダス・中国が森林地帯であるのは偶然とはいえ重要なポイントです。西洋は当たりが生であり、外れは死を意味する二元的価値の世界であるのに対して、東洋は当たっても外れても生は得られるし、同時に死となる場合もあるという融合的な一元的価値の世界であるというのはあまりに異なった世界です。

生死を始めとして根底的な価値概念がまるで異なってくるのは必然と云えます。このような前提の中、砂漠という日常的に死と隣り合わせの緊迫した環境において、集団の生命を維持させるために生み出されたのが一神教的哲学観という西洋思想の根源です。全能の一人の神という絶対的な権威への服従という概念の確立によってリーダーシップの在り方を規定したのは、西洋では必然的な知恵であったのでしょう。

~心の在り方は一様ではない

さてその一神教の概念ですが、その骨子は「人は神の子であり、神ではない」と云うことです。そして人と云うのは欠陥がある存在で、全能なる神によって契約的に生かされており、その神の前では全ての人は平等であるという考えです。この考えの中には「あくまでも神との契約においての平等であって、契約関係にない欠陥的である人同士は本来的には平等ではない」という思想が隠れています。

また「砂漠の中で生き残る」という実存から、彼らは「人は、本来は個である。集団とは云っても、それはあくまでも個が生き延びるための契約的な関係である」と云うのが本質で、これは集団<個人ということを意味しています。こういった全てを論理で割り切ったある種利害共同体的な関係が西洋の思想観の前提で、こういった考えの延長上に物心二元論や分析一辺倒の要素還元主義があります。

ようは、全ては割り切って考えるということです。ここから白黒の発想やプラスマイナスの二極的発想が生まれてきます。とにかく分けることが是なわけです。そしてどちらが問題であるか「白黒付ける」というのがアプローチです。

 

一方東洋は森林の中で生死は非常に曖昧な環境です。「右に行けば生、左に行けば死」と云うわけではありません。「左に行ったら却ってもっと輝かしい生があった」ということがあり得ます。こういった曖昧さが中庸発想を生み出しました。プラスでもなければマイナスでもない。プラスとも云えるがマイナスとも云える。

つまり物事は全体で相互関連的に一つの世界を形成していて、厳密には分けられない、と云う思想です。ここから東洋ではゼロとか無という発想が生まれました。

また神は全ての中に宿る。すべての人は神の心(仏心)を持っており、誰もが修行によって完全なる状態に到れるという思想や、人はみな平等、そして動植物も平等と云った思想も生み出されて来ました。そして集団は集団として一つの観念を形成し、論理のみならず感情も共感として同化した固まりであって、あくまでも単なる個の集合体ではない、という思想が前提となり、東洋では個人<集団が基本になっています。

そして東洋の起点は「間」ある意味「関係」というどちらにも属さない「空」にあります。問題解決はどちらかではなく「間」を調整しなければならないというのがアプローチです。

 

バイアス(特にアンコンシャス・バイアス)を考えるとき、こういった基本前提を知らずにアプローチするのは危険です。民族差別も性差別も東西では全く根底での捉え方が異なります。ジェンダーに対する文化的な思想や人種に対する文化的な思想も現象的な近似や類型化による同調では問題解決は出来ません。

一見似ているようで同じように感じても、実は全く異なる「意」による「知」や「情」で物事を捉えていることから生じる弊害が至る所で起きています。アメリカと中国の争いも単なる覇権だけでは切れない心情的な敵対があります。東西ではまずアイデンティティが異なるからです。 部分最適全体不適合にならないように取り組んで行かなくてはなりません。

特に日本や朝鮮半島は戦後中途半端な西洋の思想的な影響を受けてアイデンティティが不安定になっています。日本は国体の瓦解以降、確固たるアイデンティティがなくなっています。根っこに集団主義とそこからの行動様式を抱えながら、表面的には個人主義のような言行が起きています。それが年代格差でよけいややこしい溝を生み出しています。韓国などは道教的な民族主義という根っこの上に西洋的なキリスト教義が入り込んでなお一層の複雑さを呈しています。

こういった「意」という領域を看過して表面に生じる「知」による「論争」とか「情」による「好き嫌い」に拘泥すれば、問題はますます解決から遠ざかるだけです。問題解決は対処療法的にすぐに手を打つアプローチも大事ですが、現代のVUCA時代における組織の問題解決や人のパフォーマンス向上においては、本質究明的に立ち戻り悪循環に陥らないようなアプローチも重要になります。昨今の「black lives always matter」問題や、SNSによる誹謗中傷などはまさに本質から攻めていかなければならない問題と云えます。

 

若手が「心のリテラシー」というブログを開設するようです。これは「意」という領域の定義をしっかりと認識していなければ実践はピント外れなものになってしまいます。ということで、私のブログはしばらく「意」の調整(トリートメント)と云う観点からコメントを綴りたいと考えています。

 

さて、皆さんは「ソモサン」