• 考える力において絶対に外してならないのは、人の心と云う要素であることを自銘しましょう

考える力において絶対に外してならないのは、人の心と云う要素であることを自銘しましょう

このブログもソモサンと改変して100回目となり、もうすぐ2年目に突入することになります。その間社会では様々な出来事が起きましたが、まさかパンデミックのような事態が起きようとは流石に考えは及びませんでした。世の中は本当に論理だけでは物事を進めることはできません。

前回、立命館アジア太平洋大学長の出口治明氏のコメントを掲載させていただきましたが、まさにダーウィンが云った「生き残るのは賢さや強さではなく、運と適応である」の通りだと痛感する次第です。そして出口先生が云うように、未来は誰にも分からない。その中で最善策を得るには、唯一の教材である過去を参考にして想像力を駆使し、自分の頭で考え、自分で決断して自分の道を自分で切り開くしかない。そして一直線の考え方ではなく蛇行したり行き帰りしたりする流れを掴み、運に適応する考え方を身につけることである、というのも確かなことだと共感するところです。

ただ私的にはそこで求められる考える力として出口先生が云う所の「タテ・ヨコ・算数」という要素には、私がお付き合いさせていただいている学者さん達と共通に、学者さん故に陥りがちな欠落があると私は見ています。まあ身の回りを見る限り学者さんばかりとも云えないのですが。

 

~価値体系の喪失という問題

今週も三浦瑠璃さんが「自粛疲れと云う報道があるが、どれだけ雇用を守れるかと資金繰りに奔走してる経営者は自粛疲れしてるわけじゃないし、クビになった人は自粛疲れを理由に行動しているのではない。経済的にどうにかしなければならない人が一定数いるのが現実の中で、大手マスコミの大企業正社員的感覚は心して補正かけたほうが良い。大企業の正社員は全体のごく一部である」といった内容で、国民の大半は大企業に属しているものではないことを例にあげ、自粛を“したくてもできない”人がいることをツイッターでコメントしました。

また、雇用不安についてのアンケート調査結果を例に出して、「約半数」が不安を抱えていることを指摘し、その上で「大手マスコミの正社員はそういった不安をまるで抱えていない。そこの感覚を読み間違えないことが重要である」と述べました。

私は特に三浦氏のファンではありませんが、彼女のコメントには私が主張したいことの本質が時折含まれていますので引用させていただいています。今回の場合は「タテ・ヨコ・算数」による思考の組み立てという考え方において、私が要素的に欠落として考えている側面に関して三浦氏の主張が近似しているので取り上げさせて頂きました。

 

出口氏の云う「タテ・ヨコ・算数」という要素は2分割することができます。「タテ・ヨコ」と「算数」です。「タテ・ヨコ」とは情報のことです。「歴史」という垂直的な流れの情報と「世界」という水平的な拡がりの情報の組み合わせで、情報はまるで織物の如くに意味を持つことは周知のことです。そして「算数」とは論理の基軸である構成のことです。算数とは「四則演算」です。

情報という因子は「タス・ヒク・カケル・ワル」という4つの法則によって組み立てられていきます。そしてその組み合わせ方によって情報は多様な意味を生み出します。つまり論理は「情報×構成」という法則の多様性から展開されるわけです。この主張に関しては私的には全く異論のないところです。しかしこの論理構成だけでは三浦氏のいう見解を理解することはできません。何故ならばこの構成における「タテ・ヨコ」という情報だけでは浮かび上がってこない領域が欠落しているからです。

それは「今ここで」しか得られない情報、「感覚や感情」といった「深み」を伴った情報です。人の思いや考えと云った意思は「静態的な知識」と「動態的な情動」の2つから組み立てられます。「タテ・ヨコ」が知識的情報とすれば、「感覚・知覚」は感情的情報です。言い換えると「人の気持ち」に関する情報へのアクセスと、そこからの情報・データを加味したロジックや考え方があって初めて思考や論理は意味のあるものになるということです。

更に、感覚や知覚は視覚を通した間接的な情報ではなく、五感を通しての体験や体感による直接的情報で得られますから、「タテ・ヨコ」以上に感受的かつ意識的に接していないと知識化が出来ません。平たく云うと人間音痴ではすぐに見落とす情報群です。学者の多くが人間音痴かどうかは分かりませんが、学者のような内包的思考をする人たちに人間を苦手とする人が多いのは経験するところです。

医者は「人体のプロだが人間の素人だ」と云うのは名言ですが、人間研究を生業にする学者が人への感受性が高いかどうかは別の問題と云えます。むしろ苦手だからが故にそこの研究に没頭するといった人も多いように見受けられます。

こういったことは高学歴人材にもみられることで、知的に優秀だからと云って感受性が豊かどうかは別問題です。そういう人は総じて論理は「タテ・ヨコ」情報で十分というバイアスを持ち、大勢の感情を無視したり、人の気持ちを軽視したりして、軋轢を生じさせます。一番明確なのは何を云っても人の心に響かず、最終的に「人が動かない」ということです。寧ろ抵抗を生み、マイナスの状態を高めるケースも多く見られます。

三浦氏がコメントする主張はこの点だと思います。彼女が云う「経済的にどうにかしなければならない人が一定数いる現実の中で、大手マスコミの大企業正社員は苦労した経験、今まさに食えないという生き死にへの切迫した人たちの感覚が分からず、バイアス的に好き勝手に見てはいけない」というのは、実際の中小企業の経営者たる私からすれば「その通り」で、昨今のマスコミや二世政治家、そして学者といった保障された世界の人たちのバイアス的な意識からの見解に不快感を覚えると同時に不信感を持つ大きな理由となっています。

 

~個人主義を勘違いした弊害

それにしてもどうして日本はこのような考え方が蔓延る社会になってしまったのでしょうか。

昭和時代はもっと人にやさしく、人の気持ちや感情と云った情報も大切に扱った思考や考え方が軸足の一つにあったように思うのですが、何時から希薄になってきたのでしょうか。私はやはり太平洋戦争の敗戦による連合軍の統治施策に根本の一つがあるように捉えています。

国家には実存としての体系があり、それは3つの世界観で構成されているそうです。1つは力の体系、軍事力です。2つ目は富の体系、経済力です。そして最も重要だといわれるのが価値の体系、主義力です。ご存じの方もいらっしゃると思いますが、日本は敗戦により連合軍から力の体系と価値の体系を剥奪されて再創造を迫られました。富の体系も剥奪されましたが、これは朝鮮戦争による奇跡的な特需で予想外の復興をし、以来日本は富の体系に偏った国家運営に猛進したことは知られるところです。エコノミックアニマルと称されるくらいに経済大国への道をひた走りに走りました。

 

問題は解体された価値の体系をどう取り戻したかです。実は戦後75年を経ても、日本は未だに価値の体系を再構築し切れていません。心は知情意の3つの要素で成り立っており、その中の意が知の在り方や思考の方向性、そして情の昂揚や抑止を司令しているのは知られるところで、それはいわゆる心の支柱です。

この支柱たる意の根幹が信条であり、価値観の有り様ですが、その中でも最も重要なのは個々人や所属する集団を規定するものの見方や考え方の枠組みです。人はこの枠組みによって他者との交流や集団維持の秩序や規律を組み立てて生活や生命の安全保障や成長の後ろ盾を手にします。

人々はこういった価値の体系の殆どを、幼少期から所属する集団からの学習によって刷り込まれていきます。西洋においてはその役割を宗教が担い、教会などを通して為されていくことになります。そしてその大きな特徴は、一神教による契約概念を軸に個人主義を前提にしながらも「神の前の平等」を銘にすることによって共存することです。

個々人はバラバラが基本だが、神という絶対的存在の前で皆は等しく手をつなぎなさいという思想です。一方、東洋でも必ずしも一神教ではありませんが、仏教や儒教、ヒンズー教など、やはり価値の体系の形成には宗教が大きく影響しています。

ところが日本では宗教自体は存在していますが、明治以前は神仏習合をしたり、それを違和感なく受け入れたりと云った按配で、国としての集団規範となりえる宗教的信念体系を持たない稀有な国でした。そのため為政者は別の価値体系をもって道徳的な行動基準や判断基準を統治してきた歴史があります。それは儒教と仏教を融合した武士道という体系が中心でした。

それを明治以降は新政府が、新しい国家体系を創造するために皇室を軸とした神道に転換させました。そしてこの現人神たる皇室を中心として新たなる体系を構築し、国民に浸透させました。いずれにしても日本の価値観は律令体制の確立以来、農耕経済を前提とした集団主義の体系で明治以降もそれは踏襲されました。しかしその集団主義の行動規範はやがて全体主義を生み出し、その帰結として戦争突入を生み出してしまいました。当然、敗戦によって日本の信念体系は連合国から否定されることになりましたが、それは致し方のないことと云えます。

問題はその際に連合軍が全体主義の解体のために資本主義と同時にそれを支える個人主義を新たな信念体系として教宣した時のやり方にあります。この時連合軍は西欧的な個人主義を流布させますが、日本の集団主義の価値観を理解し切れていない連合国の人たちはそれを全体主義と混同し、あまりに急速に集団主義の破壊と個人主義の導入を高圧的にしかも短期的に導入させてしまいました。集団主義の価値観を国体と混同して全面否定してしまったのです。これによって日本人は国体と云う皇室の権威のみならず、歴史的に培ってきた集団主義の価値観までをも手放す羽目に陥ってしまったのです。

そもそも連合国が持ち込んだ個人主義は、一神教的な宗教的思想観に基づいた個人観であり、集団はそれを前提とした契約概念に基づく存在です。これは仏教などの東洋的思想観による概念とは全く異なります。東洋は始めに全体のつながりがあって、個はその中の一部と云う考えです。ですから西洋における個は独立した個であり、全体とは個が契約的につながりを持つことですが、東洋での個は全体という枠組みの中で相互関連的にまるで流れの中に点在する渦の如くつながって存在するという概念です。

この全く異なる概念を無視した中での前例を全否定した連合国の思想教宣が、行き過ぎによって日本社会のこれまでの良い方の伝統や強さを歪めてしまったことは間違いありません。そのため戦後の日本人は個や集団のあり方に対しての枠組みを見失ってしまい、それが時の流れとともにますます溝が深まり、現在では相互が調和した中で存在する個人主義と相互と云う概念を持たない中での誤った個人主義、というよりも利己主義の違いが分からない状態にまで来てしまっています。その為、利他と云う考えが分からない人々がどんどん増え、ネットでの正義中毒者の蔓延、自粛警察の闊歩と云う事態が無知な若者を中心に大きな闇を作り出してきています。

 

更には、知識学習評価への偏重が、人の持つ感情という存在への軽視を生み出してしまっています。人は理解と云う間接的な関係よりも共感と云う直接的関係の方が早く強く影響しますが、そういった関係力に鈍感な人が経験不足によってどんどんと増加し、人の気持ちが分からない人が様々な心の問題を生み始めています。気持ちが分からないということは、自分自身に対しても含みますが、感情の制御が出来ない人は自分自身をも苛み、心の病を抱える人もどんどん増えています。

豊かさは面倒を避けさせ、対人を限定的にし、対人関係力を弱めて、感情の取り扱い力を弱めます。またそこからくる経験不足は身体的な無知も生み出し、体感力を下げ、自分の体の声を聴く力も脆弱にして、気づきの力も未熟にします。こういった感情面での能力不足が利己主義と云う価値観と相まって、人を無機質で病んだ状態に追い込んでいます。

その結果が自粛中でもルールに従えず、コロナをまき散らす輩の姿です。彼らには「移らない」はあっても「移さない」がありません。利他の本質は「移さない」であって、本来はそれが抑止力の根源です。これは全体主義ではないバランスの取れた日本人の集団主義が生み出した誉だったのですが、今や遠い昔のことになってきています。世界が尊敬した日本の姿は遥か彼方に過ぎ去る一方です。

 

利他とは、流れる川の中の繋がる渦同士が相互関連する中で、お互いを配慮し(忖度ではない)、それが回り回って自らにプラスとして戻ってくるという概念です。「金は天下の回りもの」と云ったところです。現代の利己的な日本人は、もはや諸外国に対しての売りとなる財産を枯渇させようと亡国に走るような有様です。こういった日本の有り様を見る限り、連合軍の戦略は果たして成功したのか否か。その当時の担当者に聞いてみたいところです。

ともあれ、大学の先生やパワーエリートと云われる才の達人が、汚職やパワハラ、罪を犯すあり様や、教養の定義を知的世界でしか測れないようなコメントをする事実を目の当たりにするに至り、もう日本では利他といった徳は浮き上がれないのでしょうか。国家の体系を考えるにあたりこれは亡国としか私には思えないのですが。

MBA出身にも拘らず、金でしか人の価値が判断できず、人の感情が分からずに暴言する大人の発達障害者のような輩がマスコミに持ち上げられネット上で跳梁跋扈する社会は果たして本当に豊かでJoyな社会なのか、私は甚だ疑問に感じています。

 

さて、皆さんは「ソモサン」