格差社会の格差が持つ問題点の本質

緊急事態宣言が発令されて間もなく一ヶ月が経ちますが、東京では大幅増でも大幅減でもなく、毎日異常な位コンスタントに百名前後でのコロナ発症患者が発表されています。

(2020年4月25日現在)

本当に実数なのか、それとも調整しているのか、はたまた検査制限をしている裏事情における実態数字なのか判りませんが、一見すると小康状態の様な状況が続いています。ただ有識人によれば「まだまだ増加傾向だ」と云う話です。本当に五里霧中に日々が過ぎていきます。ニューヨークの様に急増するわけでなく、かといって終息していくわけでもない中で過ごせというのは、体感がないだけにまるで生殺しの気持ちと云えますが、いずれにしてもこのままでは肉体的にやられるか、ストレスによって精神的にやられるか、それとも経済的にやられるかという、どれをとってもポジティブとは云えない三方塞がりの隘路に陥った感があります。

ニューヨークなどでは未だに死者が増え続ける中、一方で遂に暴動的なデモが起きている様子ですし、日本でも少しずつ倒産が起き始めている様です。明確な保障もない中で、自己責任で動けというのでは余りに無策ではないかというのが本音のところです。真の意味での格差社会が露呈している感じです。

~格差とは当事者意識の差である

さて今回のテーマは、真の意味での格差社会における格差の意味合いです。一般に格差とは経済的格差を表していますが、私の理解はそうではなく、格差とは当事者意識の差です。「当事者意識」とは「事に直接関係しているという認知」です。先週大阪の吉村知事がパチンコ店公表問題に対してのコメントにおいて、ラサール石井氏を「お気楽」と評しましたが、実際ラサール氏がお気楽かどうかを判定するのは難しい話です。

 

私たち行動科学のエンジニアリングを生業とするコンサルタントは、当事者意識の様な概念を「理解の深度」として解釈しています。

理屈として、理解には4段階の深度があると解析されています。4つの区分けには大きく2つの軸があります。一つは主観的(バイアス的)か客観的(ファクト的)かという軸です。もう一つは間接的視点(ある意味利己的)か直接的視点(ある意味利他的)かという軸です。これらを掛け合わせると4つの領域が生まれます。その4つを深度として解析していくわけです。

最も浅いのは主観的で間接的な理解です。主観とはバイアスが掛かった独り善がりな論理展開で、間接とは「対岸の火事の様に直接自分に影響がない」ということで、こういった理解のことを「評価的理解」と呼びます。先の「お気楽」といった表現はここに当て嵌まります。次に来るのが客観的、つまり論理としてはそうだが、やはり気持ちは人ごとといった理解で、「分析的理解」と呼んでいます。

ここでお気づきの方もいらっしゃると思いますが、2つの軸は人の意識の動きを「理知的か否か」と「情感的か否か」と大別させる認知判断における心の主軸に関わっています。

つまり評価的理解も分析的理解も情緒という観点から見るとどちらも他人事で当事者意識のない理解ということになります。

論理が伴わずバイアスが中心の他者理解や状況理解は云うに値しませんが、例え論理が成り立っていても情緒を伴わない理解は、他者の心に響かず人を動かすことは出来ません。これまで何度も取り上げてきましたが、現場の持つ温度の様な情的な暗黙知を持たない学識未経験者は、情の持つエネルギーや力動が分からず、論理だけで物事を解釈し、理は立つが行動に直接繋がる情に影響を与えることが出来なくて問題解決が出来ません。今の日本の指導的立場にいる人の問題の多くはここにあります。では、どうすれば良いのでしょうか。

まずは情緒の存在を理解することです。情緒を理解しない理知は意識として意味をなさないということを認知しなければなりません。情緒は本来、直接的体感的に伝播する情報ですから何よりも実体験以外にそれを理解する方法はありません。擬似体験によって他での経験値をスライドして類推する手立てもありますが、やはり直接経験に勝るものはないでしょう。それには出来る限り様々な現場に赴いて経験値をあげていくしかありません。

しかし単に経験するだけで、それが知財化しないと応用展開も融通も効きません。それどころか思考が整理されない中で自分に都合の良い論理においてのバイアスが掛かった理解がなされると、一見相手に寄り添っていると云う独り善がりの信念によって歪んだ当事者意識が発動し、返って問題を悪化させないとも限りません。この様な独り善がりな論理展開による理解を「同情的理解」と呼んでいます。相手の真意や心情を介しない同調的な態度は時に鼻白む思いがします。

しかし分析的な態度に比べれば、まだそれなりに思いは伝わってきますので、「ズレている」とは感じても白けた感じまでにはなりません。それでは最も深い理解とはどういった世界でしょうか。まさに当事者意識そのものといった理解です。それは「共感的理解」です。様々な経験から身に付けた感受性を持って、相手の状況や立場、そして気持ちを汲み取った論理展開によって相手を理解する世界です。知的にも情的にも相手に寄り添っていますから、影響は大きくなります。

~当事者意識を持った認識とは

JoyBizはそういった動態的な関わりを目指して創立しましたが、実践はなかなか高ハードルです。人は共感軸がそれぞれですし、社会的なバイアスが介入を難しくさせる弊害として大きく立ちはだかっているからです。特に日本の場合、集団主義という思想観が排他的思考を助長させ、議論のみならず対話ですら遠ざけようと作用するので、どうしても共感的な空気を醸し出しづらい風潮があります。そのため海外に比べてコンサルタントという仕事の立ち位置が認知されづらい状況があります。

コンサルタント以上に分かりにくいのがコメンテーターなる仕事です。最近ご活躍の若手に三浦瑠璃氏がいますが、彼女の発言などを概観していると、その立ち位置の難しさが浮き彫りになってきます。

コロナ禍における小池都知事の施策に対して、三浦氏は「人間社会はある行動をすれば他に影響がでるものだ。営業時間を短縮すればアルバイト・パート代は減る。軒並み営業時間を短縮したら店は混雑する。お年寄りをスーパーの買い物で外に出さなければ足腰が弱る」と入店自粛による弊害の側面を指摘しました。

さらに「いつでも買えると思わなければ買いだめに押し寄せる」と消費者が再び買いだめすることを危惧しました。そして要請を押し付けるばかりの小池氏に「もう少し人間社会を理解してください」と注文をつけたのです。ここにおいて三浦氏は小池さんに対して絵空事(ヘッドトリップ)ではなく、現場に即した現実で考えろと注文したわけです。

その三浦さんですが、彼女は同時に国際経済学者として「ロックダウンと強い自粛の長期継続は大恐慌を作り出す。それによる格差の拡大は弱者を直撃し、数多の人の命と将来が失われることになる」とも危惧しました。そしてそうした状況を回避するためには「高齢者と持病持ちの方々の健康に配慮した行動制限とともに医療体制を拡充し、はやく経済を回しはじめなければならないということです」とコメントしました。

三浦氏は政府がGW中の活動自粛を求める中、その方針を否定するかのごとく訴えたわけです。三浦氏の発言の特徴は、とにかく経済重視です。過去にも「経済VS命の話ではなく、命VS命の話であって、コロナで死ぬ命と経済で死ぬ命は等価である」などと発言し、物議を醸しました。

それに対して巷は「気楽に口だけ動かして金を稼いでるだけ」とか「人が死んでも経済を回せとかおかしいだろ」「実態は究極のバランスを取らなくてはいけない状況で政治判断が求められる。今は利権やらでゴチャゴチャ言っている場合じゃない。訳の分からんコメンテーターの口出しこそ不要でしょう」など批判的が殺到しているようです。

マスコミも「三浦氏は〝美人コメンテーター〟としてテレビ番組に引っ張りだこになっていますが、〝とんでも発言〟が多いことでも知られています。コロナ関連で出演が増えているのも、局がそんな三浦氏のキャラクターに期待して視聴率稼ぎに利用しているとしか思えませんね」と評しています。論調は異口同音に「現場を知らない絵空事を喋る存在」という事で、三浦氏が糾弾する小池知事の立ち位置と同じになっています。

新型コロナウイルスの感染者と死者が日々増え続けている中で、多くの国民は不景気も恐れているが、それ以上に目の前のウイルスに怯えているといった心情なのでしょうが、果たして三浦氏の発言は絵空事や極端なのでしょうか。

 

私はコンサルタントであると同時に経営者という実務家でもあります。そういった私の目から見ると三浦氏の発言の方に道理を感じます。高齢者と持病持ちの絶対数と経済影響を受ける絶対数とどちらの人口の方が多いかは火を見るより明らかです。目先に囚われて大局を見切れないリーダーは亡国を招き入れるのは歴史が語っています。私的には三浦氏を批判する輩の方がよほど感情論に走り、事実ベースの論理思考をせず、それこそ評価的、分析的理解に終始する物言いの様に映ります。

ここにポピュリズム的な衆愚政治の一端が見え隠れしている様にも思います。議論をしたがらず、自分の論を磨こうとせず、平和ボケで目先しか見通せなくなった大衆とそこに毅然と面することができなくなった経験不足の政治家やリーダー達。社会の木鐸という立場を失ったマスコミ。誰の換言も受け止められない脆弱な意識の中で漫然と決めつけを展開する当事者意識を錯覚したバイアス塗れの徒党達と彼らの無責任空間でのし放題の放言。

いやこうなると最も怖いのは精神的な滅亡であると危惧する私は絵空事の無責任者なのでしょうか。

危機に際した時、全員を救済しようなどという綺麗事を云うリーダーは、間違いなく全滅を導き出す。これは歴史的な事実です。もちろん口ではその様に他者を動機づけますが、ある意味嘘も方便。現実は冷酷なものです。私も何度かの修羅場を通してそれを実感しています。日本人はそろそろ平和ボケから抜け出して、頭をちゃんと使う様にしなければなりません。今回は良い機会であると云えるかもしれません。

 

さて、皆さんは「ソモサン」