• 世界的災難によって浮き彫りとなるアンコンシャスバイアスの弊害を考える

世界的災難によって浮き彫りとなるアンコンシャスバイアスの弊害を考える

今週から4月新しい期に突入する組織も多いと思いますが、世は今やコロナ禍の真っ只中です。遂には国民的コメディアンの方が亡くなってしまいました。とても恐ろしい、治療法も見つかっていない病気の世界的な流行ですが、弊社が主張している「アンコンシャスバイアス」が流行の主原因になっているのは真に残念なところです。本当に自らの非力さを嘆く次第です。

 

アンコンシャスバイアスとは端的に云うと「無自覚に働く偏見」ですが、偏見という言葉には多少語弊があります。何故ならば一般に偏見という言葉の中には「間違い」という意味が含まれているからです。そういった意味においてバイアスは偏見と同義ではありません。偏見という意味も含んでいますが、むしろ「身勝手」といった意味の方が近いかもしれません。「無意識に働く身勝手で都合の良いものの見方や解釈」といったところでしょうか。

例えばコロナ禍の場合、2つの大きな異なったアンコンシャスバイアスが働いています。一つは「まさか自分にうつるはずがない。確率は10%以下である」という確証性バイアス(自分に都合がいい情報だけに目を向けたがる心性)的なバイアスです。若い人においては更に自分たち若者は「うつったところで若い世代は重篤になるはずない」というバイアスも起きているようです。

こういったバイアスは「自己防衛心」に根ざした認知の歪みから発せられるのですが、その殆どは無知や無教養からくる比較的浅いレベルでのバイアスと云えます。ただ浅いからと云って軽いというわけではありません。「自分だけは大丈夫」という自己中心性バイアスは今回のようなコロナ禍だけに関わらず、災害の時でも大きな悲劇をもたらします。実際そこからくる安易で不用心な姿勢や行動が世界的な蔓延の引き金となっています。アメリカやイタリアと云った西洋の蔓延が若い人を中心に広がっているのが良い例です。

我が国でも、国や自治体からの緊急要請が出た後も損得が先に立って海外渡航をして病原菌を内外に巻き散らす軽薄人間が後を絶ちません。またお花見など、外出規制の中でも多くの人が街に繰り出して密集状態を作り出しています。格闘技ショーの実施や一部の百貨店などはこういう状況でも通常営業をしたところもあります。自らの経営状況が最優先なのでしょうが、そこにアンコンシャスバイアスの魔力が潜んでいることに気付きません。

データでみる限り今世界では30歳代や40歳代の方の死亡率が高いですし、10歳代も亡くなっています。渡航問題の方も、日本での羅患者は日本人よりも外国籍の人の方が多くなっているのが現状です。明らかに海外からの持ち込み感染が広がっているわけで、政府の渡航制限に関する施策の甘さが大きな元凶になっていることは確かですが、それにつけても国内の問題としてこんな時に海外に出向くなどもっての外と云ったところです。時には「自分はまだ若いから」というバイアスで動いている人もいることでしょう。コメディアンさんは70歳でした。日々の暮らしは50歳代のようだったようでしたが、やはり若くはないようです。

ともあれ安易なアンコンシャスバイアスに惑わされ、軽薄な行動をしている人たちがコロナ禍の深刻度を高めているのは間違いのないところのようです。

 

無知や軽薄には知識の注入が最良ですが、今は何が正しい知識かが判断できないような状態です。情報管制には善し悪しがありますが、こういった時には人の動きを組織化し統制する執行集団的な動きも必要です。そういった意味では誰しもが印象付けられる権威、例えば有名人の悲報や非常事態は影響として絶大です。

朝一番でそれこそマスコミを一元化するかの如く悲報が流れたことが、国民の気付きや今後の行動への戒めとして作用すればせめてもの報いになるのかもしれません。しかし歴史を見た場合、そう上手く行かないのも歯がゆいところです。そこにもう一つのアンコンシャスバイアスが関わってくるからです。それは身勝手やネガティブな信念や価値観に基づいたバイアスです。

先のバイアスは無知や勘違いが誘因ですから、本人自身のものの見方や考え方自体が他の人の道徳からずれているわけではありません。従ってエビデンス(証明や証拠による事実)ベースで教育すれば容易に是正されるのですが、信念レベルになると情報を受け取る際にも思考する際にも、本人が意図的に見方や考え方を歪めさせてしまうのですから厄介です。

どんなにエビデンスベースな情報でも、自己存在に関わる自己防衛心として弁別し始めますので確証バイアスの深度はかなり深くなります。自分に合わないことは耳に入りませんし、感情的に破棄してしまいます。一言で云って「話になりません」。この典型がここ4週に渡ってご紹介してきた「自利利他における利他」と「利己利他における利他」の違いです。利己利他は、今回のコロナ禍で見え隠れする「人がどうなろうと構わない」という考えです。

コロナ禍における羅患者は発症未発症が混ざっている状態です。検査も治療も徐々に間に合わなくなっています。誰が保菌者か分からなくなっている中での施策が講じられています。にも拘らず「自分は元気だから大丈夫。うつらなければ良い」という軽薄な人が若い人を中心に圧倒的です。インタビューでも「桜は今だけ」とか「皆で休みが取れたのが今だったから」と笑いながら話している有り様です。しかもマスクもしていない人が一杯うろついています。そして店も旅館も営業しています。自粛要請が出ている神奈川の観光地などでも満杯の状態です。ここには「人にうつしてはいけない」「自分が媒介になってはいけない」といった心配りや配慮は存在しません。

~「利己主義」と「個人主義」の違いを理解する

その原因の一つとして「利己主義」と「個人主義」の混同と云った弊害があります。既知の人もいらっしゃるでしょうが、日本人は歴史的に「集団主義」を思想観に持つ民族です。集団主義とは自分という個が所属する集団の中で定義する価値観です。「相手があって自分」という考えです。だからどこかに「皆一緒」という思考が働きます。

そして皆と違うことはしないとか、皆がやっているならば、といった依存的で他責的な概念に基づいた反応をしがちです。自分の主張をせず合わせ行動に絶妙な動きを見せます。これは異民族や異なった価値観からの強制や蹂躙と云った歴史経験を持たず、「和」と「信」を基調に文化を育んだ証だと云えます。こういった価値観は何でもそうですが表裏、功罪といった側面を含有しています。

例えば集団主義の場合のマイナス面は、集団圧力に弱い、付和雷同しがち、自分の考えや目的意識を持たない人が多く出てくる、といったような面です。「自利」とは「自分を利する」という意味です。集団主義における「自利」は「集団の利」に合する考えや行動ということになります。

戦後日本は、この力によって後発だった世界経済の中でエコノミックアニマルと称される位の奮起によって世界第二位の経済大国になるまでの飛躍を遂げ、以来国民は豊かさを享受できるようになったのは間違いのない事実です。それが幸いしたのか災いしたのか、そこから日本人の団結力は低下していきます。ここに大きく影響しているのが西洋における「個人主義」です。

敗戦後、連合国は日本の集団主義を全体主義と捉え、根本の思想を資本主義体制に改革すべく日本の文化や風習にメスを入れましたが、特に学校教育を通して徹底させたのが個人主義の考えです。個人主義とは個々人のアイデンティティを第一義として、個々人の独立性と自律性を尊重し主張する考え方です。集団があっての自分ではなく、まず自分の権利と自由があって、それを活用できるための集団という価値観です。

個人主義は一見すると「俺が、俺が」のように感じますが、西洋において多民族が調和していくために生み出された考え方で、その根底にあるのは、自己のみならず他者の価値をも尊重することから達成しうる世界観です。ですから他人に対するように自分を尊重し、自分に対するように他人を尊重するというバランス感覚が要になり、これはかなりの知性や意性による自己統制がなければ成り立たない主義と云えます。これが機能しないと個人主義は自己のみを尊重しようとする利己主義に堕してしまいます。そしてエゴイズムの暴走を生み出すことに繋がります。

実際西洋では個と個の価値が異なった場合、双方は自分の主張をしっかりとしてお互いの妥協点や歩み寄りを見出して腹蔵なく調和させようと心配りします。ところが日本人は殆どの場合主張をせず、曖昧で感情的な大勢の空気に得心なく従ったり、忖度によって協調したりするといった古来よりの集団主義による情的な気質を残したまま、理屈だけは個人主義的に個の権利や自由を主張するといった、何とも中途半端な行動が当たり前のようになってしまっています。

そして制御できない未消化な形だけの個人主義がアンコンシャスバイアスとしての利己主義となって暴走の度を高めているわけです。それが現代の若年ほどに顕著となっている日本人の行動様式となって表れているのです。その極みがコロナ禍における報道の姿です。一体日本は何時から人に気を使えない、自分たちが生きていくための集団を守ろうという思考が出来ない国民になってしまったのでしょうか。そして、日本の美徳までをも失う風潮に堕してしまったのでしょうか。

組織に生かしてもらい組織に育てて貰いながらも、感謝が出来ない。お互いや集団や組織を利害でしか見られない。自分の努力を過大評価して「俺が、俺が」が先に立ち「おかげ様」が分からない。組織も「俺が」人間を目先の業績や数字実績だけで評価して管理者に登用して、そういった人に関心がない人間が部下を殺しても管理責任を問わずこれまた数字だけで評価する。だから螺旋状のように人材が階層を追って利己主義に染まっていく。そうした殺伐とした人間関係の中で、利己的な介入を親切だとか助言と云ってそれが受け入れられないからと云って切る。

また恩義も意図も読めない利己的な行動が、個人の尊厳とか云って称賛される。誰も彼もが自己保身として利己的な利他を利他と勘違いして、またそれを信念として活動する、そんな人間たちの集団社会。今のコロナ禍における多くの心無い人たちの行動は、ある種の自然の摂理からの鉄槌なのかもしれません。

 

今社会ではいくつかの大きなアンコンシャスバイアスが集団圧力によってマイノリティからマジョリティ化して横行し始めています。「利己利他」もその一つ。これが無知から信念レベルに進化しないように、何とか歯止めをかけられないかと真摯に取り組もうと考えている今日この頃です。

 

さて、皆さんは「ソモサン」