• 人への関心という社会活動における基本行動にもバイアスが掛かってしまった利己利他を憂いる

人への関心という社会活動における基本行動にもバイアスが掛かってしまった利己利他を憂いる

~利他と人間関係

先週は「いきなりステーキ」の一瀬社長の「自分が良いと思うものを人にも提供したい」という考えが利己か利他かということを主題に話を展開させていただきました。果たして「自分にとって良いことが相手にとっても良いことなのか」という命題はきちんと線引きが出来ない非常に難しい判断となる話です。

世の中には善意を押し付ける独善家として嫌われる人が多々存在しますが、そういった人たちは自分の中では善意であり、ポジティブなのでしょうからそこを振り返って考えを調整しろと云ってもその趣旨も意味自体が分からないでしょう。そうして自分的には良かれと思って行った行為が拒絶されて自分を見失い、ウツに陥ってしまう人も相当数に及んでいるようです。こういった場合の善意やそれに基づいた考えは明らかにバイアスと云えます。しかもこういったバイアスの殆どはアンコンシャスバイアスになります。

人はその生存的本性として自分をポジティブに評価することを前提としていますから、それを補強しようとする自己中心性バイアスや確証性バイアスといったバイアスはほぼ無意識的に発動するからです。だからこそこういった意思は市井においてとても日常的に発せられます。いわゆる「悪気のないお節介」というあれです。こういった善意が基調となっているポジティブな思いが、受け取り手から見た場合ネガティブな思いに伝わってしまうのは非常に残念なことです。

しかしそれが人間関係の現実として、自らにマイナスに働いてしまうのは勿体ない話です。こういったケースは「自分がされたくないことは人にしてはならない」といった考えにも起きてきます。「自分がされたくないことを人に進んでする」というのは論外ですが、「自分がされたくないことの全てを人もされたくないと思っているかどうか」は別の話です。やはり自分は自分、人は人として違った価値観を持っているのが基本です。

「すかいらーく」の横川氏が云う所の「人を見て法を説く」という考えの真髄です。人間関係の全ては個々における関係の中でのバランス、距離感に委ねられているということです。ある意味非常に曖昧とした世界です。最近の若い人は偏差値偏重教育において正誤という二値的価値観の論理教育を徹底されてきている中、それに没頭した人ほど曖昧に対する許容性が育っておらず、白黒を決めたがったり、極端に一方に偏った判断をしたがったりといったアンコンシャスバイアスに陥るがため、対人とのバランスや距離感を掴むのが不得手な人が非常に増えている感があります。

そうしてそういった苦手を克服する必要性を問われない中で、未熟なままに成人となっている人が充満してきています。そういう人が大人になり子を産んで、とその傾斜には拍車が掛かるばかりです。そしてその下手糞な人間関係力が対人的な齟齬や葛藤、引いては争いや無縁化を促進することになり、社会的な不信感や無関心といったネガティブな風潮を蔓延する原動力となり、一方で内面的なウツ人間を頻出させることに繋がっています。

~エビデンスベースで考える大切さ

ではそういった事態を打開するにはどうすれば良いのでしょうか。

私は社内で常々「人はポジティブに見るべきだが、信用してならない」と発言しています。その意図は「自尊心を失うような余程のトラウマが刻まれる出来事の経験や確信犯的な育成でもされていない限り、人はポジティブな存在で悪意を前提に動く人は少ない。しかし人はバイアスを持っているし、ミスを犯すのが前提の存在だから、例え悪意がなくても保身などで相手が望まない動きを取る存在でもあるから手放しに信用してはならない」という考えにあります。これはいわゆる「罪を憎んで人を憎まず」という考えと同じと云えます。

実際何らかの問題があった場合、他責にしたところで解決を生み出すことはないし、結局は自分の洞察力のなさ、浅慮を戒めた方が解決は速いというのが私の経験知です。またそういったポジティブなマインドとクリティカルな思考の組み合わせによって動く時が一番失敗も少ないし、何かあった場合でも今後に得るものも大きいというのが実感だからです。

 

クリティカルと云うのは一般には「批判的懐疑的」といったややネガティブな表現で示される場合が多いのですが、私は「エビデンスベース(証拠証明軸)」と捉えています。エビデンスは事実としての情報と因果的な論理展開で組み立てられます。

ところで昨今の若い人と話をしていると因果的な論理展開には優れているが、その遡及点や根拠となる事実情報の収集には脆弱さを感じさせる局面に多く出会います。非常に偏った情報やそれに基づいた根拠から論理を展開し、一方的で歪んだ見解を口伝する極めてバイアスの真骨頂のような場面を目の当たりにすると気が重くなります。

これが非常に狭い内輪であればまだましですが、インターネットの発達によって見えない暴力と化している実態や偏差値秀才による短絡思考のマスコミが後先を考えずこれを利用して金儲けに執心する姿勢や、それを盲信する愚衆による集団圧力の暴走と云った、道徳心を無くして来つつある世の風潮を見るに、非力ではあっても良心の声に従って何らかの鉄槌を打ち込んでみたいと足掻く心境です。

 

例えば昨今芸能人の不倫問題がたくさん取り上げられますが、正義なのかやっかみなのか分からない一方的バッシングを皆さんはどう見られていますか。勿論不倫という行為は是ではないかもしれません。しかしこの夫婦問題において何故夫がそういう行動に至ったかは、もっと論理的にまたエビデンスベースでみる必要があります。もしかして妻の日常が夫に対して問題的だったという伏線や前提があったかもしれません。しかしマスコミや愚衆は一方的に妻を聖人扱いです。でも本当に妻側に問題はなかったのでしょうか。夫婦問題の真相は内輪でしか分からないものです。

面白いのはその後にママタレ№1と称される方が夫婦問題を起こした時に、この妻が二度目の問題を起こしたことやこの夫の場合家を飛び出して不倫的ではなかったことを論拠として、今度は一方的に妻の行動がバッシングされているわけです。この妻の場合、一度目の夫婦問題は夫が不倫したということで別れた夫が一方的にバッシングされましたが、その時は妻の方はやはり聖人扱いで同情の嵐で、それを梃にママタレ№1に祭り上げられました。所が今回は悪女の極みのような見方です。どちらも同じ妻です。

まさにマスコミの節操のなさ、頭の悪さの露呈でしかありません。分かりもしないのにバイアスを駆使して人の人生をバッシングし操作することへの無責任さ。報道という公権力を持つ機関がする所作とは到底思えません。分からないことはエビデンスベースで論理的にアプローチするのは最低の倫理だと思います。今は倫理が欠落していることがマジョリティ的に感化される時代になっています。

このような時代に今後も社会が秩序を安定させて持続的に精神的成長をしていくには、せめて個々人が利他的なアイデンティティを持ち、相互の距離においてバランスを持った人間関係や社会行動が取れる環境を作り出していくアプローチ以外に方法はありません。それにはまず個々人がアンコンシャスバイアスという歪んだ見方がもたらす弊害への深い認知と理解をしっかり持ち、それによって人間相互がポジティブにコミュニケーションやコラボレーションの行動が取れるようになっていくことが重要だと、これまでの研究や経験から私は考えるのです。

~他人に関心を持つことがやっぱり大切

認知心理学の話ですが、人は自分の指向性以外には目が行かない、認知が為されない存在というのがあります。確かに人は自分に興味や関心があることに関しては細かく観察しますが、それ以外はボヤっとしか見ていませんし覚えてもいません。

若いころ先輩から不思議な質問をされたことがあります。「なあ猫って猫だろう」始めは意図が分かりませんでした。あまりに当たり前だったからです。「そうですねえ」。するとその先輩は面白い話を話し始めたのです。「今付き合っている彼女がいるのだけど、その彼女が猫好きで、彼女が云うには猫が笑ったり泣いたり怒ったりする、って云うわけよ。でも自分には猫は猫で猫が笑うとか分からない」。

話の流れでよくよく聞くと、「小さい時に猫に引っ掛かれて以来、猫はあまり好きではないんだよね」。この話には落ちがあります。「これが猫だから良いようなものの人間だったら大変だよね」。そう「なあ人って人だよね」と云われたら空恐ろしいと思います。でも最近これが現実になってきているように感じるのです。「人よりも犬猫の方に関心を持つ人」それ以上に「人に関心が持てない人」。人の気持ちや動き、反応が目に入らない人が増えてきているように思えます。皆さんはどう思われますか。

人に関心があれば人の気持ちや感情、行動に細かく目が届きます。ところが最近は表面的な論理やコンテントと云われる課題や仕事、機能と云った無機質な世界には細かく分析が出来ても、これはいったい誰のため、何のため、或いはそれをするのは誰、といった人に目が行かない反応を至る所で目にします。作品作りやそこからのリターンと云ったことでしか論理が組み立てられず、前提となる着眼自体が偏ってしまっているので情報収集段階から欠落が生じてしまっている。

酷い話になると人どころか他の存在という発想が出来ず、常に自分がどう見られているか、自分をどうしてくれるのかといった利己にしか思考が行かないので、自分を押し出すことしか出来ない人も増えてきているようです。アイデンティティが確立できていないが故に自分軸が不安定な人に多い話ですが、社会活動でそういった我が儘や甘えが通用するはずもありません。結局そういった自分本位な人間のアプローチは早晩その利己が見透かされ、繋がりを断られるのが落ちです。人の本性に利己が外せない以上、人は誰しもがそれを意識しています。自分が利用される存在、或いは自分を大事にしようとしない存在を拒絶するのは道理です。

 

人に関心が持てないということ自体、社会において「おかげ様」が分からない利己人材です。そんな人にメリットを付与してくれる余裕も暇も今の環境にはありません。善人だから悪人だから以前の問題です。せめてギブアンドテイクが出来なければ目も呉れて貰えないのは必然でしょう。利他とは慈善という意味ではありません。利他は人と繋がる基本姿勢なのです。それが何故論理思考できないのか。

恐らくは人を介さなくても生きていけるようなコンビニ時代において人的な苦労や経験がなくなり、人に対する知見が育ってないところに、世の中の風潮が人軽視の評価となっていて、アンコンシャスバイアスのように問題を潜在化してしまっているのが原因だと私は思っています。ただこの問題は人間社会の営みにおいては本質的な不可避の問題なので、早晩この問題が生み出す社会的な歪みは更なる困難を人に強いてくるのではないでしょうか。今回のコロナウイルス問題はその試金石にように、世界の人民にそれを問うているようにも感じます。

 

さて、皆さんは「ソモサン」