• 利他な人が集まる利他な組織は自然な笑いを生み出す努力から始まる

利他な人が集まる利他な組織は自然な笑いを生み出す努力から始まる

前回は「利己利他、すなわち、自己利益のための手段として人の役に立つということを捉えている行動」にも拘らず、それを「自利利他、すなわち、人の役に立つという行為を自分の利や生きがいとして捉える行動」と思い違いしているのみならず、利己利他を当たり前と認知する最近の世の風潮、特に若い人の考え方を取り上げさせていただきました。実際わが社でも会社からの指示を無視するような身勝手な振る舞いに日々終始しているにも関わらず、口先では「自分は会社や皆のお役に立ちたい」と宣う輩たちに閉口させられる経験を持っています。

最初に期待と動機付けで実力よりも上の賃金を約束したにもかかわらず、意気に感じるわけでもなく、会社の業績が低迷していても責任意識もない。あまりに仕事をしないので、見合った行動のベースに賃金契約を修正しようとすると不平は云いまくる、後輩にネガティブ行動で悪影響するで、認められたいならば見合った行動を取れと勧告すると、「役立とうと思っていたのに」と喧伝しながら方々に他責的に悪口を言い触らすといった始末で、更に警告すると早々に退職して恨み骨髄と云った有様。

会社的には食い逃げされた状態で、一時は会社が彼に使った負債を背負う羽目になるという事態にまで陥りました。こういった輩は何時の時代にも何処の組織でもいる話ですが、最近では社会風潮が風潮ですから、そういった人たちが「利己利他」を基調と認知しながら徒党を組んで、自分の行動に対して全く自戒する余地も持ち合わせていないようです。

まさに「あんた何言ってんの」という按配で、幾つになっても幼児性が抜け切れない社会行動のままに老齢期まで年を経てしまうひとが続出しています。その結果が50-80問題です。50歳になってもニートか引きこもりで、80歳の親が面倒を見るという現実。死んでも死にきれない社会問題です。

そこまで行かなくても50歳を超えるような大人が利己利他人間の行動を前提的に容認するところまで来ていますから、これからの日本社会を思うとうすら寒くなります。テレビの番組などでも朝から発達障害の様な利己利他人間が30歳を超えても不躾な口の利き方や無機質なコメントを弄している姿が映し出されますが、それを勘違いも甚だしく「誰にでもはっきりと物言いが出来て面白い」とばかりに無作法を公共に垂れ流している状態ですから世も末の感がします。皆さんの組織状態は如何でしょうか。

ともあれ利己利他と自利利他は以て非なるものです。否はっきり云って利己利他は利他ではありません。単なる利己の誤魔化し的方便です。利己ならば利己と云った方が余程判別が付きますし、付き合い方もすっきりしますが、利己利他の様な似非行為ほど嫌らしくて見苦しいものはありません。こういった利己的行動こそが静かに人間社会の信頼関係を破壊していき、個々の心を蝕んでいくことは明白です。何処かで歯止めを掛けなければなりません。

 

自利と利己の違いは行動ベースでみると非常に分かり易く浮き彫りになります。それは「社会に迷惑さえかけなければ何をやっていても良い」といった、社会を維持する上で必須となる公共奉仕心が抜け落ちた身勝手な論理による振る舞いに顕著に示される「快楽に向けての姿勢」が好例ですが、詰まるところ苦楽の捉え方に現れるのです。

まず利他というのは自分の考え方とは異なる考えを中心に振る舞う場合もありますから、自分だけの思い通りにはなりません。従って他に対して一定の配慮や妥協と我慢、そして時には苦悩や苦痛を伴う場合もあります。従って初めから楽しい利他などはなく、楽しいか否かは状況に対する心の持ちように左右されることになります。また利他にとって苦労自体もそれが「与えられるのか」「進んで取っていくのか」の違いには大した意味はありません。大切なのは苦労を楽しいと思えるか否か、という心の持ちようになってきます。

利他における楽しさは結果に対する認知の中にあります。ところが利己は全く違ってきます。利己は端から自分の楽しさのために活動する考えですから、元より苦労は忌み嫌う所です。利己的人間からすれば苦労という存在は交通事故のような存在で、求めていないのに与えられてしまった悲劇でしかありません。出来れば避けたい世界なわけです。

 

これはコミュニケーションなどの場面において顕著に出てきます。利己的な人間は自分にとっての心地良さが優先しますから、人の話を聞きたいように聞き、見たいように見ようとします。バイアスが強く、特に確証性バイアスが強く出ます。確証性バイアスとは自分にとって都合の良い世界を作るために、それに有利な情報だけを集めようとする心理特性です。そういったやり取りをする人の「利他」とはどういう世界でしょう。

間違いなく自分にとって都合がよく、気分が良い範疇での人との関わり合いにおける押し付け的な「人のため」になってきます。利己的人間は人の話をそのまま受け取りませんし、自分にとって都合よく解釈を施します。また考えるという行為も面倒臭い「苦労」として認知していますから、それを避けようと反射的に深く考えるという行為を避けようとします。ですから考えるという修業が幼少期から成されていません。

その結果として人の話を額面だけとか言葉尻だけとかでしか受け取れません。すぐに言葉に反応して、言葉の裏側を考えたり、付き合いの経緯を考慮しての言葉の背景や真意を捉えようともしません。そうしてちょっとした物言いや方言に反応、特に利己ですから保身的でネガティブに反応して、根に持ったり落ち込んだりします。自分の都合だけで状況を捉え、人を評価します。

こういった輩と絡むと本当に厄介です。非生産的な状態が続出します。現代の若者を見る限り、学問的な知能は高くても、こういった意思に関する未成熟で利己的な幼児時人間が蔓延してきています。まともにコミュニケーションが取れず、人に対して疑り深さが先に立ち、挙句まともに人とコミュニケーションが取れなくなり、人を恨んだり上手くいかないことを人のせいにしたりすることで、問題解決や苦悩から逃避してどんどん追いつめられる人やそれによって先の見えないうつに陥るケースが非常に目立ってきています。

はっきり云って自業自得ですが、こういった人間ほど利己のスパイラルに落ち込んで行きますので、原因を他に求め内観や内省をしませんから問題解決はたこつぼ状態の度を高めるだけです。ともかく自分が苦労することだけはしたくないが前提ですから容易に治癒をしません。組織もこういった甘ったれが一人でもいると人間関係を引っ掻き回されて大変なことになります。嘆かわしいのは、それがマジョリティ化する中でマスコミを始めとして甘ったれを容認するどころか面白がる利己文化の蔓延によって社会そのものが疲弊の度を高めている風潮です。正が邪に取り込まれていく姿こそ亡国の走りです。

これがグローバル化の情報流通によって世界中の先進国が同じ現象を起こし始めている昨今です。一体人間社会はどうなっていくのでしょうか。21世紀は「心の時代」と云われていました。これは良心が息を吹き返す時代と私は期待していたのですが、今のところ兆しどころか逆の様相です。何か「新型コロナ」禍は大いなる鉄槌が自然界から下ろされているような気もしてきています。

 

閑話休題

利他の世界を社会にもたらす方法はないのでしょうか。援け合い活動は直接的ですが、もっと日常的に出来る方法はないでしょうか。私は「笑いが生まれる空気作り」「笑いを基調としたコミュニケーション」が大きなカギを握っていると常々考えています。人は誰しもポジティブを求める心根を持っています。意識的なポジティブを生み出す感情は「快適、快楽」であり、それを引き出す行為は「笑い」です。「大笑い」もあれば「微笑み」もあります。

様々な笑いがありますが、いずれも心理としてはポジティブな気持ちです。利他の入り口は人の中に「快適、快楽」を生み出すことです。人は気持ちが「快適、快楽」になると、思いがポジティブになり、活動が創造的になります。人間関係も滑らかになります。お互いが「快適、快楽」になるやり取りほど生産的な状態はありません。ここに利他の本質があります。持続的な利他的な世界の創出は理想です。しかし千里の道も一歩からです。その入り口も大事だと思います。それが、笑いがあるやり取りです。関西では歴史的に「笑い」を重視する文化が根付いています。

私は関西出身なので、幼少から笑いの重要性を刻み込まれてきました。おそらくは商業の街としての駆け引きを含めた様々なやり取り、それ以前の有史以前からの文化の中心地として、人間関係が良好な社会を営むために笑いという力の重要性を認知していたのかもしれません。事実イギリスやフランスなど歴史のある街ほど笑いの文化あります。また「ユーモア」や「エスプリ」「ジョーク」など笑いの種類も多彩です。

そういう私ですが、高校時代に東京に転居してびっくりしたことがあります。社会的に笑いがないわけでも仲間内で笑いがないわけでもありません。しかし何か笑いの質が違うのです。直接的に笑うべきことや可笑しいことは笑うのですが、コミュニケーションを円滑にするために利他的に笑いを生み出そうとする努力をする人は少ないような印象を持ったのです。お互いの会話に丁々発止といった柔らかさを少なく感じたのです。総じてどこか非常に生真面目で堅苦しい感じです。

お互いに場を笑いで和ませるといった気遣いが少なく、笑いが通じないどころか会話が何となく歯に衣着せているか、ど・ストレートかの極端なやり取りが多くて、何か肩こりするような状態になり次第に会話をするのがおっくうになるような感じを持ったのです。そして言葉尻に反応したり、言葉を額面通りに受け取ったりという人が多く、何か対話がぎすぎすしたり、どこか相互に疑心を持ったようなやり取りが続く感覚を抱いたのは初めての経験で、非常に戸惑ったのを覚えています。

関西人にとって冗談が通じないのは地獄です。やはり関東は日本中から人が集まる混成集団で、どこか対人間に疑心暗鬼があるのか、官僚的で行政的な街で、商売というよりもビジネス、非常に目的的でクールな風潮が原因なのかもしれません。しかし疑心とは利己の真骨頂です。これが行き過ぎると人間の良さが失われ、亡国に繋がっていくのは必定です。歴史を見ても都市化が進み、人の交流に潤いがなくなり、隣が疎遠となり、街から笑いがなくなっていくに連れて社会が衰退していくのは必然的な姿になっています。

企業組織も同様です。これは非常に不味いことではないかと、私は危惧する次第です。街に笑いを。しかしこれは非常に大変な行為です。社会のギスギスがここまで来ると笑いすらが侵食され始めます。昨今関西から進出し始めたお笑いに私は懐疑を持っています。私が関西で学んだお笑いは人情であり何となく聞いていると自然に笑いが生み出される様な自然な温かさを感じる内容でした。ところが今のお笑いは他者を貶めたり、優位感を煽ったりするような利己的な笑いを感じます。

また演者の多くも利己的な満足のためにお笑いを行おうという意思を強く感じ、お笑い自体がギスギスしたものに感じます。関西の笑いの文化も関東の文化の根強い力に染まってしまって抗しきれないのか、はたまた関西自体が変わってきたのか(商法も関東的になりつつあります)は分かりませんが、お笑いというビジネスは私の考える利他的で潤いある関係づくりのための笑いの活用とは違っているようです。笑いにも利己と利他の区分が出来てきたようです。

 

何れにしても、利他的な文化によって人間相互がポジティブで創造的、活動的な状態を生み出すのには、笑いの空気が一番です。笑いが生み出されるコミュニケーションに組織はもっと努力をしなければなりません。そして笑いによって組織の空気が「快適、快楽」になった時、企業も家庭も、そして国も健康なレジリエンス状態になることが出来ます。「快適、快楽」。これを英語ではJoyと云います。JoyBizはそれを実現するために創設した会社なのです。

皆さんの組織も是非Joyにして下さい。

さて、皆さんは「ソモサン」