経営における「自利利他の精神」の実践を考える

~利己と自利の違い

利己主義という言葉があります。自分の利益を最優先にして他人や社会全体の利益を考えようとしない身勝手な態度を云います。ここで着目するのは「利己とは自分だけを考える」という意味を含んだ言葉だということです。何故ならば人間の本質を考える場合、果たして利己はいけないことなのだろうか、ということは重要な命題だと考えるからです。

果たして人は誰しも本能として生存に対して強い欲求を持っているということは厳然たる事実と云えます。ですから人が生きていくために自分を利する行動を取るということは必然の行為と云えます。問題は、人はもう一つの命題として集団社会を営むことで生き長らえているという事実を持っているということです。このことは、人は相互依存的な存在であるということも大前提として抱えているということを意味します。

この2つの事実は二律背反の世界を生み出すことになります。それは即ち、人が誰しも自分を利することを優先する本能を持っているという事実を皆が忠実に行う限り、相互の関係は早晩葛藤状態に陥ることが不可避になるということです。全員が利己を全うしようとすれば集団社会は維持できなくなります。

 

それを回避するには自分を利する行動はお互いに一定の制限をしなくてはなりません。誰かを犠牲にした上に自分のみの利が成り立つということは徐々に信頼という人間間の絆を破壊し、疑心暗鬼の状態を生み出し、引いては争いを生み出す種となります。そしていずれはその恨みによって返り討ちを生み出す結果になってしまいます。

一方、だからと云って滅私奉公の如く自分を犠牲にして利他を行うという行為は人間の生命維持の原則に逆らうことと同意義となり、それは徐々にストレスを生み出し、これまた自分を潰してしまうことに繋がります。あちらを取ればこちらが立たず、こちらを取ればあちらが立たない。さてどうすれば良いのでしょうか。

 

自分を利することは必要です。必要悪でもありません。実に自然な摂理です。しかし集団を維持するには、少なくとも自分だけの利益とか自分最優先という考え方や行為は、むしろ避けるべきこと云えます。こういったことは少しでも自分に意思がある人ならば自明の理の話と云えます。この二律背反を紐解くにおいて、実は利己という言葉に含まれる意味に大きなヒントが隠れています。

仏教の考え方に自利利他という考えがあります。自利利他とは「自分の善行によって得た功徳を自分で受け取るとともに、それによって他者に救済という利益を図ること」という意味です。これは「自分が生きていくうえで利益を求めるのは悪いことではないが、その行為が他人の利益に繋がるようにする」ということと同義と云えます。「自分だけの利益」というのではなく純粋な(出来れば善行な)「自分の利益」という所がポイントとなります。それを表す言葉は「自利」という言葉です。そう「利己」ではありません。自利には「だけ」という意味は入ってきません。

原則利己は忌むべき行為ですが、自利は必要不可欠な行為です。ところが不思議なことに自利は一般に周知される語彙にはなっていません。三省堂の新明解国語辞典にも載っていません。一般で使われるのはもっぱら「利己」です。そして巷では道徳教育が軽視される風潮の中で、言葉の定義も曖昧なままに、きちんと真意や本質を理解することもなく、その場凌ぎに「利己主義はいけない」と教条的に喧伝され、人間の基本欲求たる自利までが否定される空気が蔓延し、それによって聞く方が白けてしまうような説教臭いイメージが植え付けられていきます。その為か利他の本質が年を追うごとに社会に浸透しなくなってきています。

利他が面倒くさい行為として捉えられたり、利己の否定が極端なイメージで嫌がられたりして、徐々に返って若者は利己を勝手な解釈によって自己理解し始め、今や利他への本来的な考え方や行為から何処かずれた発想で可笑しな行為をする人が至る所で出現し始めています。

私の実体験として最も多いのは「人のため、人の役に立ちたい、人を手助けしたい」と口にはするのですが、その行為の殆ど全てが「最終自分の利益に繋がることを打算した上での人のためへの動き」に終始するという人です。一見善意に見えます。

また(同類だからか)上っ面しか見られない人や目先での感情的な自己満足でしか人を見られない人、無責任で結果まで深謀遠慮出来ない人は謀られ、「あいつは良い奴だ」とばかりに心を寄せ気を許したりするのですが、そういう人を注視していく限り、どう見ても「それは実際は人のためではなく自分のため、自己満足のためにやっているのだろう」「一見利他的に振る舞っているけどその心根は打算だろう」という動きが目に付くのです。それは「自利利他」ではありません。「利己利他」です。

そういった人は、自分の利益に繋がらないことへの利他は行いません。また、極端に利他へ傾斜した考え方によって心身のバランスを壊し、鬱の様な心の病に陥ってしまいます。これは特に自信の乏しい人に多いようですが、深く捉えるとこれも「隠れた利己心」に起因しています。自利が出来ない自分への焦燥が利他への極端な傾斜となるのです。そして気が付かないうちにそれが利己に転嫁してしまっているのです。

~自利の心とは

ともあれ利他は大事ですがやはり利己はいけません。「自分だけの利益」という考えは社会を壊します。しかしだからと云って純粋な自利行為までを否定するような極端な論調になるのは危険です。「私利を求めるな、無欲であれ」といった考えはストレスフルな状態を生み出してしまいます。また利己と自利を混濁させて利己心を自利心のように平然と扱う無知蒙昧な態度も危険です。

ではどういった心構えが自利利他としての自利心になるのでしょうか。それは「少欲足るを知る」という気持ちです。京都龍安寺の石庭の裏にポツンと蹲(つくばい)が置いてあり、そこに「吾唯足るを知る」と刻んであります。これは禅の考えですが、「強欲は集団や関係の秩序を破壊する。かと言って無欲では自分を破壊する。両者のバランスを取るのが自利の落ち着くところである」といった意味です。

 

「少欲にして足るを知る」。満足ではなく充足を求める心構えが他者との良好な関係を生み出す。この顕著なケースが「勝ち負け」への執着心です。弱肉強食の動物の一角を担う人間はその本性に「生き残り」「勝ち残り」への欲求を持っています。これは自利として重要な要素です。しかしそれが極端になると自利は利己に変容してしまいます。「負け続けている人」「負け戦に染まっている人」は相当に利己心が強く浮き出てきます。

「勝つ」ということは他者を「負かす」ということであり利他とは少し離れた動きと云えますが、負けていると自他ともに認知される場合は比較の魔力に魅了されている煩悩状態ですから、ある程度は許容される世界と云えます。特に勝ちを一度でも体感した経験を持つ人であればそれを許容できる度量を持たねば、人として成長しているとは云えませんし、負けを認知している人のマイナス意識という火に油を注ぐだけの愚かな行為です。結局は自分が損をするだけのことです。ところがそんな単純なことも分からない単細胞な人が時々います。ただひたすら自分の欲望を追いかけるだけの強欲な人。利己主義の顕著な例です。

そして多くの負け組や弱者側から恨みを買い、大損をする。ところが現代はこういった人がプラクティショナーという領域で成功したからと云って、全く要件の違う、そう自利利他が基調となるマネジメントの立場になり、チームや組織を破壊してしまう暴挙が至る所で発生しています。これは選ぶ人も選ぶ人と云えますが、それ位今はここで描くような意思の世界が理解できずに知力のみに偏重した人が蔓延し、それがマジョリティとなっている歪んだ状況になっているのです。

 

これは戦後の教育による最もまずい弊害です。知力教育に偏重した態勢が70年の時を経て、日本人が本来持っていた強みである意思の力や文化が薄まり、それが学校のみならず家庭でも意思の教育が軽視される中で、日本人の美徳であった「少欲足るを知る心構え」「自利利他の精神」が失われてしまいつつある分けです。最早そのこと自体に意識を持つ人すら途絶えつつある状況です。「物のない国日本。心という精神的資産だけが頼りだったのに、それすらを手放そうとしている国日本。その恐ろしさすら感じなくなっている日本人」。これからの日本はどうなっていくのでしょうか。

さて、皆さんは「ソモサン」