• 人として本当に頭が良いというのは本質を捉えた上でバイアスを調整することが出来るということ

人として本当に頭が良いというのは本質を捉えた上でバイアスを調整することが出来るということ

コロナ禍によって世界的に大混乱が起きています。

特に複数名が集まる様なイベントは一挙に自粛態勢になっています。とうとうあのディズニーリゾートすら休園の運びとなりました。このような事態は近来稀にも見ないことですし、未だ収束の目途も立たない様相です。これによって世界経済は大幅な減速となることは容易に予測できる状態です。今後の世界や日本の姿はどう変貌していくのでしょうか。

かく言う弊社も集合教育が大きなウェイトを持っていますので、イベント事業と同じように人が集まることで成立する性として実施の中止や延期が舞い込んできており、内部留保が少ない中小企業の悲哀を実感する毎日です。

~知の偏りが「意」の歪みを生み出す

さて先週は「頭の良し悪し」に絡めて、若干ではありますが、「頭における意と知の違い」について触れさせて頂きました。今回はその続きをしたためたいと思います。

意にも知にも関わる存在として思考があります。知の高低や意の浅深は双方ともに思考力に影響されます。その思考力ですが、考える力は持っている情報量と知識量の多寡と情報を繋ぐ思索力、回転力の掛け算で成り立ちます。ということは当然情報量の少ない人程思考のパターンや成果は限定されることになります。情報量の少なさは解析する成果への濃度に影響すると同時に発想の偏りに大きく影響を与えます。

この情報量の因子として重要なものが二つあります。雑学と経験知です。雑学とは幅広い見識のことです。例えば経営の様な世界は、実務として生産工程とかマーケティングあるいは財務会計の様な垂直的論理で工学的な領域と共に、人間行動とか組織活動の様な多面構成的論理で心理学的な領域といった多岐に及んだ情報系を内包しています。これらは独立的ではなく、相互関連的に影響し合っていますから、何処かに手を加えるとまるでギアとチェーンの繋がりの如く、他の因子にも影響が出るといった按配です。

ところが情報が乏しい或いは偏った担当者やコンサルタントなどは、発生する問題の真因を見極められず、自分が知る見識の範囲や得意とする情報系の範囲に偏った思考をし、事態を却って悪化させてしまうといった愚行を演じてしまったりします。こういったケースは一芸に秀でた専門家や学校秀才に多いのですが、情報そのものが少なかったり学習したりする機会を持たなかった人が、たまたま立場を得て無知なままに判断を要求された場合に起きる悲劇といったケースもよく見られることです。

いずれその影響を受ける人たちは可哀そうな限りです。農協や生協のトップとか市や村のトップと云った人に多く見られます。特に農協ではそういったトップが無知なままに、これまた偏った専門性しか持ち得ない国や県の担当者の言を盲信して経営状況を悪化させるといった二重の災禍をもたらす愚行が全国的に見られます。残酷な悲喜劇としか言い得ません。

一般でもテレビのコメンテーターなどは好例です。最初は一芸を期待されて登場して信頼を得るのですが、次第に何でも屋のコメンテーターを要求されます。その段階で矜持をもって断れば良いのですが、ギャラが良いのか勘違いして鼻高になるのか、毎日テレビに出て好き勝手放題のコメントを弄し、無責任で抽象的な言で糊を得ています。そして民衆はそれに翻弄される有様です。三徳包丁ではあるまいし、何でも切れる包丁などあり得ません。これはコメンテーターも悪いが、学部名ではなく大学名でしか人を判断できない日本人の悪しき権威主義文化も問題です。何れにせよ偏った知識や情報系による思考がもたらす弊害の一つです。

 

さて経験知となると様相はさらに不可視的で複雑性の度を高めます。経験知は別名暗黙知とも云いますが、形式知と違って非常に感覚的でかつ属人的な知識です。行間という言葉を使ったり、皮膚の裏側という言葉を使ったりすることもあるように、概念化が難しい知識領域です。経験値は五感的知識という表現も出来ます。

例えば「火の熱さ」です。火の熱さは幾ら言葉で表現しても言い表せません。「熱い」は火に手を翳して初めて分かる知識です。良く「現場へ行ってこい」「現場に来てみろ」などと怒号されたりするシーンを目にしますが、こういった五感的な知識は経験量によって大きく差が生まれます。但し経験知はそれ自体が仇になる場合もあります。経験知は万有的普遍的知識ではありません。時代や環境の変化によって変わりますし、属人的なので受け止め方によっても違いが出る知識だからです。経験が故に失敗するという両面価値が存在するからです。

パイロットによると航空機事故はベテランほど多いそうです。これまで慣れ親しんだ技術がある環境で異変になったときに、ベテランほど経験知に依存して対処に後れを生じさせるのだそうです。しかしそれを以てしても知らぬよりは知っておいた方が良いのに越したことはありません。大事なのはその知の制御をもたらす意の存在です。「何事も謙虚に虚心坦懐に」とか「初心忘るべからず」といった言はそれを指す好格言と云えます。

~人としての本義とは

弊社にも高学歴ながら、実務では今一つ突き抜けきれない人材がいます。その原因は経験不足による思考の偏りです。少ない情報系の中でグルグルと思考を高回転させるのですが一向に目的地に辿り着けません、スピードは速いがその思考が目的に向いていないということに気が付けないのです。まるで地面に向かって自転車を漕いでいるようです。穴ばかりが深く大きくなるわけです。

さらに加えて最近の高学歴者は受験勉強に明け暮れて雑学不足もあり、それは社会生活上、大きな穴ぼこを生み出しています。経験は積み上げですが、雑学は幅の広さです。幅広い知識なく経験を積んでも重箱の隅を埋める知識補強にしか過ぎなくなります。特に高学歴者、そして若者に増加しているのは「人間系」「感情系」に対する知見の欠落です。学校では人間系に関する明示された教育はありません。一応学習指導要領には書かれているのですが、あくまでも補助的な打ち出され方です。

受験戦争の時代以降非常におざなりにされていますし、そういったおざなり人間が親になるに及んで、そこを強調する先生は却って糾弾される始末です。その結果が「いじめ」の横行であり、「意のない人材」の多創出であり、「覇気のない人材」の醸成です。そして核家族化が進展し、親が権威を無くして似非友達化するに及んで成人するまで「人の気持ち」「人同士の共生」といった価値観が育成されない、まず前提としての「人に対しての関心」という知識がない人材が大量生産される状態となっているわけです。

恐ろしいのはそういった人材はマジョリティとして刺激がない中で育っているため、そのことの持つ危険さに気が付きません。皆がそうだから事の重大さに慢性的な麻痺に陥っているのです。「え、そうなんですか」「それがそんなに良くないことなのですか」といった感性です。指摘しても表面では「すみません」「いけないですね」と云いながら、行動ベースでは何も耳に入れていない。そういった反応が至るところで起きています。社会で最も大切な「痛み入ります」「お陰様で」といった心構えに対する意が知として組み立てられていません。

何でも「俺が、俺が」の利己主義が横行し、自分の正当性が先に立つので人を受け入れられなく自分ファーストの行動は悪化の一途を辿るばかりです。当然、経験学習も歪みの一途です。そしてそれが当たり前の人材が利己的に行動し、結果として短期に学歴出世して権威を持っていく。これを指摘する人もいなければ、聞く耳もない社会。そして心ある人材が歪みに従って心に傷を負い、若者の「うつ」化は拍車が掛かるばかり。

「おもてなし」など上っ面の社会。でも孤独は嫌だし自分だけのためには利他的であってほしい。こういった人材が輻輳する近未来の日本。さてこういった日本の未来をどうしましょうか。「考えない」とは「頭が悪い」とは、知の偏りを経て「意」の歪みを生み出していきます。

 

このように狭い情報系や知識系によって限定された思考こそが「バイアス」の根幹なのです。どれほど論理力に優れていても知識や見識幅の狭い中での垂直的思考の人は「バイアスの箍」からは逃れられません。専門バカと称される人はこのバイアスの虜の好例です。そして田舎者と蔑称される人の特徴は頭の回転が論点なのではありません。まさにバイアスの箍から抜け出せない人の真骨頂を指すのです。

バイアスを調整するとは、まず多面思考が出来ることです。それには「雑学としての見識を広げること」そして「現場での体験を経て暗黙知の量を増やすこと」です。でもそれが「何のために」が抜け落ちては意味を持ちません。例えばそれで人が犠牲となっては元も子もありません。思考する能力は機械やコンピュータの方が優れています。でもそれらは意味を持った思考は出来ません。それらは人ではなく人を生かすための道具だからです。思考は本来人を生かすために備わった力です。つまりそこには常に目的があるわけです。思考は目的遂行のための手段です。

ところがその手段を目的化して思考力を高めようとする人がいます。これは学習弊害です。何のために自分は思考力を得たのか。何故それを磨かなければならないのか。どういった思考力こそが重要なのか。そこを見誤ったり軽視したりする人は、本当は頭が悪いということです。利他とは利己のための存在ではありません。始めに利他があってその報いとして利己があるのが本質です。

何故ならば「人は人のために生き、人によって生かされる」のが摂理だからです。人間はそれでしか種を守り続けることが出来ません。それが普遍の命題だからです。それを真摯に行うのが人の本義です。つまり為すべきは、何よりも人としての本質である「人と共に生きていくために、人を第一義に見れる感覚を持った思考力」を身に付けるということです。本末転倒は頭の悪い人の所業です。ただ一度の人生です。人としての道を踏み外した生き方や学び方にならないようにお互いに気を付けましょう。

 

 

さて、皆さんは「ソモサン」