頭が良いということの本質を考える

今回は久しぶりに知情意における「知」と「意」に関するよもやま話をしたいと思います。

私は以前から「知とは何か」を探求する中で良く耳にする「地頭」という言葉に強い関心を抱いていました。地頭とは、私的な定義ですが、いわゆる学校秀才の様な枠組みとして外から規定された情報や知識知の中だけでの、更には限られた法則性の中だけでの受け身的な論理的展開力に秀でた頭の使い方ではなく、より現場での実学的な問題解決に役立つ自発的で応用的な論理展開に秀でた頭の使い方を云います。世の中でいう「あいつは頭が良い」というのは、ほぼほぼこの地頭についての評価だといって間違いはないと思います。

さてこの頭の良さですが、これには大きく3つ程の特徴があると以前より様々な文献などによって私見を抱いていました。最近ではあまりそこに強い関心を持ってはいなかったのですが、ここのところ私の関わる人たちの振る舞いでそれを痛感する出来事が幾つかあり、そこに偶然にも同じような見方を唱える人物のコラムをネットで見るにあたり、これは看過してはいけない課題であると改めて意を新たにした次第なわけです。

 

では早速ですが3つの特徴とは何なのかから話を進めましょう。一つ目は「問いに対する返事が早い」ということです。常に頭を使っている人は思考がアイドリング状態になっていますから、情報が入るや否やすぐに回転し始めます。ですから即答してくるのです。当然悪い方は頭の回転が休止状態ですから、まず頭を温める状態に持っていくところから始めなくてはなりません。当然回転し始めは返答内容が頓珍漢というお粗末さを伴います。

二つ目は「返答の内容が具体的かつ行動的で分かり易い」ということです。良く云う「的を射ている」という状態です。頭が良い人は相手の問いの目的や意図、内容を的確に掴みますし、そこに予測を働かせたり、その背景を考えたりとマルチフルな思考をします。そして何より「人を見て法を説きます」から相手のレベルや状態にあった回答をしてきます。

良く「小難しいことや自分世界の専門語を弄する人」がいますが、コンプレックスが強い人はこういうやり方で頭が良いと自分を納得させます。こういう人は頭が良いとはいえません。コミュニケーションや対話をする上で、或いは社会的な世界で問題解決する上で重要なのは相互理解です。人を見て法が説けない、相手の状況を見て言葉を駆使できない人は実はとても頭が悪いのです。頭が良い人は誰に対しても分かり易く、言葉もかみ砕いて平易に表現できる力を持っています。問いに対して「抽象的に返す人」はまず問い自体が理解できない、或いは具体的な回答を持っていないために答えられないのです。

しかし最も多いのは頭の回転が弱いので問題解決の論点が掴めず、思考が論点への回答にまで及ばないという人です。そしてそれが許される仲間とだけ集ったり、それで許されるレベルの世界に籠って生きてきたために思考が訓練されておらず、具体的な解決的回答まで辿り着けないパターンです。あらかじめ正解があるパズルの様な問題を紐解く訓練しかしてこなかったような、そこを極めるような思考しかして来なかったような学歴人材にこれに該当する人が多いのですが、ともかく浅慮で多段階的に思考が出来ない。

自分自身が“もやっと”して的を射ない回答であること自体に気が付かず、それで満足してしまっている。また周りも同様に頭が悪いのでそれで済ましているという、しゃんしゃん組織が至る所で墓穴を掘ったり社会に弊害をもたらしたりしています。

そして最後が二つ目にも被りますが、「聞いている論点に対して的確に答えを返してくる」ということです。頭が悪い人の真骨頂は「聞いたことに対して答えてこない」です。「おいおい今そんなことを聞いていないよ」というような驚くべき回答をしてくる人が想定以上に存在します。始めは「逃げているのか、答えたくないのか」と思うのですが、当人はいたって真面目ということがあります。

「聞かれていることの趣旨や論理が掴めない」のです。ここまで来ますと最早論外です。話が続きませんし、コミュニケーションや問題解決など彼岸の世界です。でも本当にこういう人が多いのです。苦労をしていない。安易に果実が手に入るといった環境が、このような生きるためにも深く考える、他者と手を携える為にも意図を正確につかむ努力をするといった訓練を蔑ろにした付けが徐々に来ているのでしょう。

 

こういった知の問題は、意の問題にも深い影響を与え始めています。例えば最近多いのは「自分が分かっているのだから相手も当然分かっていて然るべきだ」という考えを持った人が増えてきています。そして相手に配慮が出来ません。相手と意図や目的をすり合わせることの重要性に目が向かないのです。これは思考のお粗末さともいえますが、一方で無関心さという意思の在り方の問題もあります。

また非常に思い込みが強く、「人の話を皆無意識に自分に都合の良い論理に置き換えて思考してしまう」という人も多くなっています。いずれも他人との対話訓練不足もありますが、その前の他人との触れ合い不足もあります。特に人は年を経るごとに知恵を身に付け、それに合わせて用心深くなっていきます。言い換えると疑い深くネガティブになっていきます。そのため幼少のときに多くの触れ合いや対話の経験がないと懐疑心が前提に立つコミュニケーションに染まってしまいがちになります。最近の社会的な風潮はそういった人材を頻出させてしまう状態になっていることは危惧されるところです。

これに学歴偏重の社会が要請する日常行動が加わると頭は回転するが、すべからく思い込みに基づいた論理展開に終始するといったコミュニケーション弊害が社会問題に発展する可能性も否めないと考えられます。非常に恐ろしいことです。特に恐ろしいのは、思い込みの原動力が自分第一、つまり利己主義ということです。先の頭の良し悪しの根本原因にもこの利己主義という意思が強く影響しているように思えます。

利己のために思考する。ですから端から人の為とか相手の為と云った社会行動やその為の問題解決、そしてコミュニケーションの本質、目的、意味が想起できないのです。これは知以前の話です。人が本来持っていなければならない意が抜け落ちるか歪んでいっているということです。

最近若い人と話をしていると、どうも「利他」という考えにズレを感じます。利他とは本来、社会的存在としての人間が生命を維持していくために学習した共生が前提の考え方です。ですから利他とはある意味当たり前のこと、利他によって相手を生かしそれによって自然としての自己充足を得るが本義だと私は考えます。ですから利他的な振る舞いによって相手が満たされた場合、それはこちらの充足で「良かった」といったレベルの行いだということです。仏教でいう「施し」の概念と云えます。

しかし私の周りでは「相手のため」と云いながら、それには最初から打算が紛れ込んでいて、「相手を満たせば自分が満たされる」つまり「自分が満たされるために相手を満たそうとする」という起点は、まず自分であるという考えを普通に展開する人が増えてきているのです。そして彼らは「相手が満たされているのだから良いではないか。ウィンウィンだ」と放言します。

「自分のための相手」「自分を満たす道具としての他人」、これは利己ではないかと私は感じるのです。この考えは早晩破綻を来すように感じます。どうも論理的に何か突っ込みが欠けているとは思えませんか。はたしてこういった問題は知の問題なのか意の問題なのか、とても大切な論点です。

 

先だってのプロ経営者の話には続きがあります。これも頭の良し悪しと密接な関係がある内容です。この話も頭を使うということの本質をついています。同時に皆さんも考えてみてくださると幸いに存じます。

『経営者の中には、良く頑張れ、頑張れば必ず道は開けるという根性論を振りかざす人がいます。スポーツの世界の練習量などはその好例です。日本では長時間練習ほど強くなれる、頑張っている、という信仰があります。スポーツに限らずビジネスでもそうですね。でもそのアプローチだと、どこかから長時間練習をすることだけが目的になるんです。最初から最後まで集中することなんて無理なので、いつの間にか無意識に7割程度の力で長時間続けることが目的になっていくのです。実はそれが日本人の全力で頑張る、なんです。

面白いことに、それに慣れると本番の時でも7割の力しか出なくなるんですよ。どうも日本人のスポーツ全般が「本番」に弱い理由がここにあるのではないか、そう考えたのが2015年ラグビーワールドカップで強豪である南アフリカ代表を破る快挙を遂げた監督のエディー・ジョーンズ氏なんです。彼は長時間練習することを止めさせました。そして練習を1日4回に分け、1回50分で切り上げるようにしたんです。こうすることで1回1回の練習密度を濃くし、選手たちの集中力を高めることを促し、常に100%の力を出せるよう仕向けていったんです。

そう大事なのは頭を使うことです。うまくいっていない時には、まずそれを真摯に捉え、そこに目を向けて本質を考え抜く。それをするにはともかく「自分で考えること」「会社にとって大事なことは何か」を基準にして欲しいと思います。例えばフォロワーシップの世界では、「3つのTIMEが大事」 という考え方があります。 TIME(時間)TIMES(回数) TIMING(機会) です。

ヒトを育てるには時間もかけないといけないし、何度も何度も回数を重ねて言わないと伝わりません。中でも一番難しいのがTIMINGなんです。ミスをした時にすぐに指摘できるか、逆に良いことをした時にすぐに褒めることができるかというTIMINGが非常に難しいんです。アプローチのTIMINGとして一番良いのは、脳みそを通さずに条件反射的に言えるようにすることでしょうね。

「会議に遅れてくるな」「名刺を忘れてくるな」など当たり前のことができない社員には、それが経営陣相手であろうが僕はその場で条件反射で注意します。相手のメンツや周囲に配慮するより、それが一番本人に伝わるからです。一方いいアイデアを出した社員に対してもその場で「今年3番目にいい発言」とほめちゃいますね。それが伝わらない人材は経営者と共感できないわけですからまず運命共同体は作りえません。そういう人材は決して上に登用してはなりません。

当たり前の話ですが力や意思のない社員に気を使っていては経営責任は履行できません。組織の瓦解は外ではなく壁の内側から起きてきます。内憂外患は内の方が怖いのです。ただ共感を相手に依存しているのでは経営者として経営に対する責任意識があるとは言えません。率先して内を固める努力を怠って、その責任を社員に振っているようでは当然社員の心に共感が生み出せるはずもありません。

内側を固めるには、何よりも現状を伝えるしかありません。その為に大事なのがコミュニケーションです。僕は年に1度は我々を取り巻く環境、未来の方針を伝えています。あと四半期ごとに成功例、失敗例、良いことも悪いことも全部オープンに話をしています。全体説明会だけではなく社員と個別面談もやります。そして1人ひとりがどんな仕事がしたいのか聞きます。あと「この仕事だけはやりたくない」というのも聞いています。

現場の大切さは分かっています。だからこそ経営者としては、次の世代を育てるべく任せていくことが一番大事でしょうね。僕としては最終的に社員1人ひとりが指示されずとも自分自ら行動できるようになる状況を目指しています。その為に僕は積極的に社員を褒めることを心がけています。社員に自信を持たせる場を作ることに腐心しています。そして社員と通じ合うためにとにかく話を直接的に聞くことを第一にしています。

神様は人間のことを本当によく作ってくれました。「耳が二つで目が二つで口が1つ。つまり、2倍聞いて2倍見てあげる。自分で喋るのはその半分ぐらい、1倍で良い」ということです。 特に、「人の意見をしっかり聞く」「 聞いた上で判断する」というのは日本では大事です。日本人は誰しもが世界に比べると高学歴社会で一定の考える力を持っています。つまり自分という意思や主張を持っています。だからしっかりと聞いた上ならば、結果が違う判断になったとしても納得してくれます。また自分の意見を出せたという参画的な気持ちを持つと積極的に動き出します。』

 

さて、皆さんは「ソモサン」