• 身近なアンコンシャス・バイアスの調整には、何よりもまず論理的思考力を磨くのが一番です

身近なアンコンシャス・バイアスの調整には、何よりもまず論理的思考力を磨くのが一番です

皆さん、お早うございます。今日(120日)は午後から横浜の林香寺さんで「アンコンシャス・バイアス」のセミナーを開催させて頂きます。お陰様で新規のお客様を中心にほぼ満席での開催となっています。改めてこのテーマの抱える時代背景や問題意識の深さに襟を正す次第です。

JoyBizは組織開発を生業とする会社ですが、それは人々が「快」を軸とした操業をする前提条件は「組織の中の全ての人々が無意識の偏見を指摘できる雰囲気を持った状態にある」「安全かつ安心な居場所が保証される」と捉え、それを通して「思いを持った人々が自己実現を為し得ることから最大多数の最大幸福を得る」ことをエンジニアリングするものです。

そういった視点から停滞する組織や衰退する組織の共通点を見つめますと、経営者の乱脈を除けばその全てが「組織内の偏見的なコミュニケーションによる士気低下、相互不信、活動障害」が原因になっているといっても過言ではありません。

偏見、このバイアスには特徴的なパターンがあります。

 ~バイアスの3つのパターン

1つはステレオタイプです。ステレオとは「型を用いて作られたかのように全く同じもの」「既に完成された状態のものとして扱われているもの」という意味で、多くの人に染み付いている認識や固定観念、特に先入観、思い込みです。ここで注目したいのは、「多くの人に染み付く」という側面です。

これは2つ目の特徴とされる多数派絶対主義による少数派いじめと重なって、組織内に大きなコミュニケーション障害をもたらしています。日本人は集団主義の土壌を軸として、自分より「人の目」を中心に反応する国民性です。この集団意識がもたらす盲信が生むバイアス弊害はかなりのものです。ここでのバイアスは最早無意識というよりも、意識を押し殺してといったようなものを強く感じます。

「皆がそう見ているから」「皆に示しがつかないから」と偏見に同調した行為などは集団に入ると至る所で目にします。この集団同調バイアスは、日本人に突出しているバイアスです。こうした悪意の村八分や口撃で心身を病んだ人や、こういった風潮に浅慮に乗っかって歪んだ集団の方におもねいて人を追い込む輩が、社会や会社の活力を疲弊させていっています。会社でもこれによって無気力中堅がどんどん排出される事態に陥っています。

3つ目が不十分な情報を主観的な補填で歪めた情報に加工してしまうというものです。これこそ浅慮の極みです。前回も日本人は論理的思考に欠ける国民であると書きましたが、これこそ典型例です。ここにも集団主義が色濃く影を落としています。「あ・うん」とか「ツーと云えばカー」といった言葉は日本独特の表現です。

欧米では「人はもともと違った価値観を持っている。分かり合うには語り合わなければならない」という認識ですが、日本は真逆です。「彼とは価値観が合わないから話しても無駄」といった「なあ、分かるだろう」という依存的なコミュニケーションが罷り通ります。そのため「分からなければ聞く」「分かるまで聞く」ということが出来ません。そして「聞くことは分からない証として恥じ」といった、それこそ意味不明の感情論が罷り通ることになります。その末路が、「分かったふりして狭い知見や空想での情報補填」といった事態を招くわけです。

こうして歪んだ情報がバイアスとなってコミュニケーションを阻害する原因になっているわけです。このバイアスには防衛心が深く関わっています。人はその存在として「社会貢献としての寄与」「快としての自愛」そして「社会的地位としての権威」という3つの意義を自認しながら選択行動をとりますが、中でも権威への反応は「自己効能感」として最も強く反応します。馬鹿にされたくない、舐められたくない、恥を掻きたくないという心根はここから発露されます。

人はたとえ自分が浅慮であったとしてもそれを認めたくない存在なのです。分からないと認めるのは死ぬほどにつらいのです。まして日本では中世は「儒教」や「朱子学」によって「恥」の概念が強調されて教育されている国民です。ここに対する防衛心は人一倍です。そしてバイアスも人一倍なわけです。最後は「人間の認知力限界を補おうと生理的に起動するショートカット思考」です。

人間の情報処理能力には一定の限界点があります。どんなに頭が良い人でも同時に2つのことは出来ません。聖徳太子の話などは科学的にあり得ない話です。一方で、世の中で処理しなければならない情報量はここ何年で加速度的に増えています。それを乗り切らなければ会社に未来は見いだせないと追い詰められたところが至る所にあります。

そういった中で処理を至上命題とした場合、時間の中で認知し判断するために人は思考の過程をショートカットする習性を身に付け、それはいつの間にか生理的な反応になってしまっています。これがいわゆる「認知バイアス」です。例えば「雨ごいをすれば雨は降る」といった場合、本来ならば本当にそうなのか事象全てを証明しなければなりませんが、そんな時間も余裕もないといった時に、最初に経験した事象を基点に思考過程を中抜きしてすべてをそうだと決めつけてしまうような思考が働いてしまうことを云います。

こういったバイアスのパターンは幾つか類型がありますが、いずれも思い込みや決めつけに繋がり、それが積もるとステレオタイプに昇華していきます。そしてそれが集団で同時体験的に起きると、一事が万事の思い込みが集団思考に練りこまれ、一部の宗教的な信仰に転じていってしまうことにもあります。それを操作的に行うのが洗脳です。

ともあれこうしてバイアスを見ていくと、その殆どは防衛心が影響していますが、それ以上にその起点は無知や浅慮が原因になっていることが分かります。生理的な防衛機制はそう簡単に外したり調整したりすることは出来ません。しかし起点となっている無知や浅慮は日常の心がけで幾らでも調整は可能です。先ずは出来ることから始めて、ストレスのない生産的なコミュニケーション状態を組織の中に醸成したいものです。皆さんも時代の流れに遅れないように是非真摯にアンコンシャス・バイアスという考えやその改善に目を向けて、積極的に取り組んでいただけると幸いです。

~参考引用

最後に、先週の続きで論理的に捉えた「働き方改革」の本質について、長文ではありますが、ネットにあったコメントを全文掲載させて頂きます。皆さんの論理はどういった解釈をされているでしょうか。

 

『「要因分析」を、日本経済を低迷させている諸問題に対してきちんと行っていくと実態が浮き彫りになってくる。日本経済の低迷は、女性活躍や有給取得率でもそうだったように、最後は必ず「小さな企業が多すぎる」という問題に突き当たるのである。低賃金、少子化、財政破綻、年金不足、最先端技術の普及の低さ、輸出小国、格差問題、貧困問題……さまざまな問題の諸悪の根源を容赦なくたどっていくと、「非効率な産業構造」という結論にいたるのである。

それはつまり、日本が他の先進国と比べて経済効率の低い小さな企業で働く人の比率が圧倒的に多く、そのような小さな企業が国からも優遇されるということを浮き彫りにする。日本は生産性の低い「中小企業天国」と呼べるような産業構造になっているのである。こういうと「小さな企業が多いのは日本の伝統で、普遍的な文化だ」とこれまた漠然とした主張をする人たちが多く出てくる。しかしこれは表面的な分析に基づく”大いなる勘違い”なのである。

歴史を振り返っても、小さい企業が多いのは日本の普遍的な文化だと言えるような客観的事実はどこにも見当たらない。むしろある時期を境にして、現在のような「他の先進国と比べて小さな企業で働く人の割合が多すぎる」という産業構造が出来上がっていったことがわかってくる。その時期はいつかというと、「1964年」。この年、日本はOECD(経済協力開発機構)に加入しましたが、その条件として突きつけられたのが、かねてより要求されていた「資本の自由化」だった。当時の日本では、資本が自由化されれば外資に乗っ取られるかもしれないという脅威論が唱えられ、護送船団方式など「小さな企業」を守るシステムが続々と整備された。

つまり1964年というのは、日本を「低生産性・低所得の国」にした「非効率な産業構造」が産声を上げたタイミングなのである。そして、この「1964年体制」を法律面から支えたのが、前年に制定された中小企業基本法である。同法は当時「中小企業救済法」とも言われたほど小さい企業に手厚い優遇策を示したものである。同時にその対象となる企業を絞り込むため、製造業は300人未満、小売業は50人未満とはじめて「中小企業」を定義した。しかしこれが現在逆効果となってしまっている。

優遇措置を目当てに、50人未満の企業が爆発的に増えてしまったのである。中には企業規模を拡大できるにもかかわらず、優遇措置を受け続けたいということで、50人未満のラインを意図的に超えない中小企業まで現れてしまった。非効率な企業が爆発的に増え、その上成長しないインセンティブまで与えてしまった。中小企業を応援して日本経済を元気にしようという精神からつくられた法律が優遇に甘えられる「中小企業の壁」を築き、「他の先進国と比べて小さな企業で働く労働者の比率が多い」という非効率な産業構造を生み出してしまったというなんとも皮肉な話である。

それでも1980年代までは人口が増加し続けたため、経済も成長を続けた。しかし1990年代に入り、人口増加が止まると、この生産性の低い非効率な産業構造の問題が一気に表面化してきた。ちなみに日本の生産性を取り上げる際に必ず出てくるのが、日本では製造業の生産性が高くサービス業の生産性が低いという事実である。この現状を説明するためによく言われるのが「日本人はものづくりに向いている」「サービス産業の生産性が低いのは『おもてなし』の精神があるからだ」という話である。

実はこれも如何に直観的な神話であるか、非効率な産業構造ですべて説明ができる。これも単に中小企業基本法の影響なのである。この法律で中小企業が製造業では300人未満その他は50人未満と定義されて以降、日本ではこれに沿うような形で企業数が増えていった。その影響もあって、製造業はどうしても他の業種よりも規模が大きくなった。規模が大きければ生産性が高くなるというのは経済学の鉄則である。

一方日本のサービス業は圧倒的に規模の小さな事業者が多く乱立しているという事実があるので、当然生産性は顕著に低くなるというわけである。「1964年」と聞くと、ほとんどの日本人は東京オリンピックを連想する。そしてここをきっかけに日本人が自信を取り戻し焼け野原から世界第2位の経済大国へと成長していった、というのが小学校の授業などでも習う「常識」になっている。

しかし、分析的に見ると現実はそうではない。データ的にはオリンピックの前年からすでに景気は減退していた。事実急速なインフラ投資の反動で、オリンピック後の倒産企業数は3倍にも急増した。1964年からの「証券不況」も事態をさらに悪化させて、被害拡大防止のために日銀は公定歩合を1%以上下げた。しかしこれも焼け石に水で、19655月には山一證券への日銀特融を決定し、同年7月には戦後初となる赤字国債の発行も行った。この不況が「資本の自由化」が引き起こす「外資脅威論」にさらに拍車をかけた。

そして「乗っ取り」や「植民地化」という言葉にヒステリックに反応するうち、やがて財閥系や大手銀行系が手を取り合い、買収防止策として企業同士の持ち合いも含めた安定株式比率を高めていった。1973年度末の法人持株比率はなんと66.9%にも達した。この「守り」に特化した閉鎖的な経済活動が、護送船団方式や、仲間内で根回しして経営に文句を言わせない「しゃんしゃん株主総会」などを定着させて、日本企業のガバナンスを著しく低下させていったことが実際の顛末なのである。

日本人はとにかく「会社を守る」ことが何をおいても優先されるようになると、経営者に必要なのは調整能力だけになってくる。数字やサイエンスに基づく合理的な判断をしないので、他人の意見に耳を貸さずとにかく「直感」で会社を経営するようになっていくのである。その暴走がバブルにつながる。そんな「暴走経営」がこの20年、日本経済に与えたダメージは計り知れない。ものづくりメーカーは、社会のニーズや消費者の声よりも、企業側の「技術」や「品質」という直感が正しいと考える「product out」にとらわれ衰退した。

そしてバブル崩壊後も、データに基づいた客観的な分析をせず、直感に基づく表面的な分析をして抜本的な改革ができなかった結果が、この「失われた20年」なのである。このように日本経済の衰退を要因分析していくと、「1964年体制」に原因があることは明白である。つまり「1964年は東京オリンピックで日本の飛躍が始まった年」というのは間違いで、実は残念ながら経済の衰退をスタートさせてしまった「国運の分岐点」なのである。「1964年体制」がつくった産業構造を元に戻すことは容易なことではない。

その動かぬ証拠が1990年代から実行されたさまざまな日本の改革がことごとく失敗してきたという事実である。その結果、国の借金は1200兆円にまで膨らんでしまった。人口減少などさまざまな「危機」が迫る日本には、もはや悠長なことを言っている時間はない。日本経済を立て直すためにも、古い常識や”神話”を捨てて、数字と事実に基づく要因分析をすべての国民が受け入れる時期にさしかかっているのである。』

 

さて、皆さんは「ソモサン」