働き方改革の本質を考える

働き方改革における訴求点は労働生産性の低下にあります。そもそも働き方改革という言葉がクローズアップされたのは、現状での労働態勢において収益がどんどんと低下する中、それこそ無策にただ過去の延長でエンジンを吹かすだけのガンバリズムで一時凌ぎをしている企業が、従業員の心身の疲労を招く結果となり、企業側もブラックという社会倫理的な誹りを受け始めたことに端を発しています。

つまり働き方改革の本質は、時短や休暇といった経済的なゆとりがあるところにのみ可能な「生活的なゆとり」を表面的に創出する取り組みをすることではなく、仕事実務の質的改善によって実質的な労働生産性を向上させる取り組みを行うことと言えます。

 

では仕事実務の質の現状はどうなっているのでしょうか。今の日本企業の価値観や実態は、1980年代に日本の生産性は世界一であると喧伝された頃のままでフリーズしているところが殆どといえます。

そもそも生産性が低いということは、働けど働けどお金が稼げないということです。稼げないということは労働対価としての給与報酬が得られないということで、頑張っても無駄という焦燥感が湧き起こり心が病んでいくという悪循環が始まります。

そのような中で対処療法的に労働条件を名目的に良くしても根本問題は改善されていないので、事態は悪化する一途をたどります。

大事なのは根本原因を駆逐することです。実態としての無駄を省き、お金を生み出す仕事に適正に人を従事させることです。

日本の企業に見られる無駄は様々です。例えば ITの遅れがあります。とにかく文書が多い職場が溢れ返っています。原本を作って印鑑を押すといった旧態依然の事務仕事が相も変わらず蔓延しています。また対面型のコミュニケーションを好み、その時間調整や時間確保に有効時間を費やしています。

しかしそれ以上に深刻なのが、仕事の専門性の軽視です。まず入社段階から採用人材の専門キャリアは看過されます。採用基準は有名大学であるということが優先され、学部はお構いなしです。夜学でも大学名が良ければ、それ以上のレベルの他大学の学部の学生よりも優遇されます。そして人事管理も職務ではなく職能で評価されます。時には未だ年功序列が横行するところも見られます。

面白いのはここでいう職能は専門としての能力ではなく、社会人基礎力程度の能力に対する認知でそれも偏っています。平たく言えば「賢いだろう」「頭は良い筈だ」で、それが受験学問だけの偏りでも、一事が万事の如く全ての能力に拡大化し一般化して判断してしまいます。そして採用後は専門性に関係なく配属します。経理部門やマーケティング部門など本当の意味での職能や職務に対して適正に専門キャリアを配置していれば、即戦力になる筈です。特に最先端を大学や大学院で学んだ人材、グローバルで活躍した人材を適材適所で配置していれば相当の生産性向上が望めます。

更に驚くのは、せっかく専門性を習得させても今度は現場とか、工場の次は営業とか、非合理なローテーションをします。昭和時代はいざ知らず、個々の専門性がグローバルな標準化が進む昨今、修得すべき内容は桁違いに深く広くなっています。ゼネラリスト養成など企業の生き残りにおいては二の次の問題です。このピント外れは、専門性を学習してきた従業員の士気も削ぐ結果に繋がっています。せっかく専門性を身につけてそれを発揮しようと就職したのに、その能力が全く発揮させてもらえないのです。組織に対しても自分に対しても後ろ向きになってしまうのは必然と言えます。

こんな人事ローテーションははっきり言って無駄です。せっかく身につけた能力を捨てさせることになりますし、部門や職能を変わるたびに、都度会社も従業員も改めて大変な思いをしながら教育訓練をしなくてはならなくなるからです。

そして「専門化されない人事」に連動して、権限と実務の乖離が起きています。権限が現場に下されていませんし、その権限者が知識も能力も持ち得ていないという意思決定構造があります。決めなくてはならないことが現場で決められず、そのくせ決めるべき人も分からないので決められないということで、無駄で冗長な社内調整が膨大に必要となり、会議会議、根回し根回しとダラダラ時間が無為に過ぎていきます。

人によって無知無能でありながらも権限者という立場に自己防衛が吹き出し、下に力を与えまいとばかりに下に情報を渡さない、下からの情報を上に上げないといった利己的な行動が生産性阻害の原因になっている場合もあります。

こういったホワイトカラーと言われる管理者層の労働生産性の低さが、日本の企業の最大問題であることを自認する必要があります。

実際とにかく会議が多い。また大勢が出て来ます。その為に一人当たりの会議参加時間が多すぎる結果となっています。この原因は先の権限話に加えて、集団主義から来る「全社の動きを知っている必要がある」とか「企画の立ち上げには、期初段階から関連する部門全員が参加して認識を共有化していなければならない」といった非合理な風土があり、またそうしないと組織が動かないと信じる否定的幻想が社内に歴史的に蔓延しているからです。

会議の進め方にも問題があります。会議で発言しないのは参加意識がないから問題だという人がいますが、それよりも発言を促されて考えの及ばない専門性の乏しい人が稚拙な話を後ろ向きに延々と喋ったり、権限はあるが技能がない人がダラダラと思いつきで喋ったりして全体の時間を無為に費やさせていることの方が罪悪です。生産性を上げる筆頭の人たちをセレモニーに付き合わせる時間をなくすだけで、残業などはあっという間になくなって来ます。

コンプライアンスの形骸化なども一因といえます。コンプライアンスは本来姿勢の問題で、規則や規定の制度化が目的ではありません。ところが本質も考えずにお上からのお達しを字面で追っかけて、結果「文章文章」「記録記録」といった形式主義に陥って、回避動機が蔓延して積極的に動かない人材が増えて来ている企業も出て来ています。こういった後ろ向きの人材たちが経年の中で企業内の大勢を占め始めて活力の底力を奪い、悪循環が加速して来ているのです。

そこにグローバル化の波がきたのですから堪りません。まず仕事量が桁違いに増えました。同時に英語が使えないと仕事が回らなくなりました。リアルタイムでアジャイルな仕事運営が出来ないのはもちろん、文章も日本語と2つの言語で走る手間が起きました。日本語ができない海外の人が日本語をベースにした意思疎通を求められたり、英語に慣れない本社管理が多国籍のオペレーションを統括したりする中で、業務量は倍増します。

その上対話が進まないのですからストレスは溜まるし、コミュニケーション上のロスや誤解も広がり、至る所で生産性の低下が加速しています。海外企業グループの日本側などは「待ってられない」とばかりに置いて行かれたりして、主導権どころではありません。その為、会議運営も海外時刻次第で振り回される始末です。

にも関わらず、競争力激化による不振で要員削減となると2重言語の業務負荷は重く伸し掛かるばかりです。これだけ人の時間と労力が奪われる状況にあるのですから疲弊が起きるのは明らかで、それを現状の働き方改革で是正できるわけがありません。逆効果となるだけです。更に生産性は低下し、日本の多くの企業は経営が行き詰まって行くのは火を見るより明らかです。

 

働き方改革の骨子は、文章を削減して会議運営を見直し、実質労働を増やして、更に専門性を高めることによって権限を委譲してコミュニケーションや意思決定を効率化する。そして作業時間を短縮して長時間労働を無くしていく。結果として従業員の心身がヘルスケアされるのです。

働き方改革の為に残業ができないから管理職が実務を代行するとか、働き方改革の為に生産量が減り、経済規模が縮小し、給与も減って、要員削減となりどんどん貧しくなる。これでは本末転倒も甚だしいとしかいえません。

本来仕事とは自分の専門性を発揮してそれによって生活が豊かになり、日々が楽しい状態になること。未来に夢が持てて前向きに創造性が発揮され実存を満たされること。そういった人たちによって、企業もサスティナブルな成長を手にすることです。

場当たりで目先の働き改革に踊らされて、未来に禍根を残さないようにして貰いたいと切に願う今日この頃です。

 

さて、皆さんは「ソモサン」?

 

恩田 勲 拝