• アンコンシャス・バイアス・マネジメントによって虐めを組織から排除する

アンコンシャス・バイアス・マネジメントによって虐めを組織から排除する

皆さん、こんにちは。

~犬もあるけばバイアスに当たる

アンコンシャス・バイアスをメインテーマに活動を行っている最近のJoyBizですが、このテーマで日常を送っていると、人の思いこみの強さとそこから来る錯覚の強さを痛く感じさせられます。一昨日のことですが、ちょっとした事故に遭遇して保険会社に連絡する用事が出来ました。

コールセンターに電話をすると想像通り(ここが肝です)、はきはきした女性の声が電話口から聞こえてきて、マニュアルに従って粛々と事務手続きが為されていきました。最後に女性の方が「後ほど事故対応の担当からお電話が行きますのでよろしくお願いいたします」と云われたので、その電話待ちをすることになったのですが、事故対応に戻らなくてはならないので電話待ちを後輩に依託することにしました。

30分ほどして保険会社から電話が掛かり、後輩が対応して手続きは無事に終了しました。と、ここまでは普通の話です。面白いのはここからです。私は何気に後輩に「さっきとほぼ同じ内容のやり取りだったけど、今のやり取りをした男の人の確認はどういう趣旨なんだい」と声を掛けたのです。すると後輩は淡々と「今の人は男ではないですよ」と応えたのです。「えっ?」私は一瞬混乱しました。最初の窓口は事故担当から連絡をすると云ったぞ、にも関わらず事故内容を詳しく聞く様子もなかったので問い質したのだが一体どういうことだ?

 

後輩の言によると、どうやら内容は警察に確認すれば詳細が分かるので、担当としての今後の動きの確認をしたかっただけのようなのです。さて云いたいポイントはそこではありません。何故、私は男だと思ったのか、ということです。どうやら私の頭の中の思いこみは、事故担当即ち男という図式があるようなのです。まさにアンコンシャス・バイアスです。

更に面白いのは、一見淡々と「女性です」と応えた後輩も、実は電話に出るまでは男性と思い込んでいたというのです。はて、ではこのバイアスは何処からもたらされたのでしょうか。後輩はコマーシャルを上げていました。コールセンターは土屋太鳳さんで、渉外は織田裕二さんという刷り込みが原因だと云うわけです。なるほどそれもありです。

しかし私はもっと奥深い学習の深遠に、外に向かって打って出る役割は男性という想念があるように思えるのです。土屋さんや織田さんのコマーシャルもその社会想念の一端の表現として描かれているように思えます。そしてそういった社会的な集団バイアスが個々の持つ信念体系を倍加的に補強していく螺旋構造をイメージするのです。

そして皆さんもお感じになると思いますが、このバイアスは特に直接私にマイナスをもたらす存在とは云えません。つまりこのバイアスに私は自己防衛的な感覚をもたらすようには思えませんし、むしろ世の中はこういったバイアスの方が多いように思うのです。

だからといって、こういったバイアスに罪がないとは云えません。今回のバイアスは私にとっては直接的な害はありませんが、この内容には今の時代においてはある種の偏見が混ざっています。それは、男は外に打って出て女は中で守るという想念です。これが家内というような言葉をもたらす要因にもなっています。

肉体的に力強い男がそれを主力に世を生き残っていく時代には、この価値観や想念は重要な骨子になりますが、知恵による科学とそれを基点とした手腕が物理的力を制御できる現代にとってはここでの男女差はなくなってきています。しかし、世の中はまだまだこの前近代的なバイアスによって外で活動する、即ち働くのは男で、内で家を守るのが女と云った価値観が支配的です。それが様々な差別的な害を生み出している事実があります。

となると、今回の様なバイアスも安易に看過するのは危険と云うことになります。一定の配慮や是正が求められるということになります。

ともあれ日々においてこう云ったレベルでバイアスを捉えてみると、バイアスがもたらす弊害や非生産さは至る所で見受けられます。注視すべきは、只の日常的な断面でさえ噴出するほどのバイアスがある中で、グローバリゼーションとかダイバシティといった複雑性が加わるとバイアスの存在はどの位の量になるかということです。まさに「犬もあるけばバイアスに当たる」です。

~バイアスをマネジメントすべき理由~

バイアスが厄介なのは今回の事例のように自身が感知できるような違和感が発生しない限り、当人はそれをバイアスとは認知しないということです。時にはバイアスが成功をもたらすという、これまた錯覚した認知をする人すらいます。歪みに正当性はありません。正当でないからバイアスというのです。

それとラテラル・シンクや複線思考と一緒くたに捉えてバイアスを正当化し始める人を時折目にします。思考法として能動的に身につけた複眼力はバイアスとは別物です。複線的に物事を捉える思考は、基軸が何であるかを予め弁えての軸ずらしです。ズレている自分が認知できていないバイアスとは意味が違います。

バイアスの強い人の中にはこのように、バイアスを自己正当化によって強化させます。これこそが自己防衛心のアンコンシャス・バイアスという、伏線的働きをするバイアスの恐ろしさです。このバイアスが人の思いこみを強化し、歪みを広げ、頑固さを醸成し、軽いバイアスを罪なモノへと進化させていくのです。アンコンシャス・バイアスと云う存在は、このように輻輳構造や重複構造を構成することもある厄介な思考形態といえます。

関西方面で複数の学校教諭が同僚の後輩を陰湿に虐め、それが社会問題になっています。先だってこの教諭連が謝罪コメントを出しました。何となく本音では反省していない、何処か自己保身や自己正当化を匂わせるお子さま的な文章を感じたのですが、中でもリーダー格の40代の女性教諭のコメントには唖然としました。彼女はその行為を愛情表現、可愛がりの表れだ、と述べたのです。余程の低脳か極度のバイアス人間かのどちらかとしか思えませんでした。

まあ学校教諭を20年程経験した存在ですから、幼稚は幼稚でも低脳とまでは云えないかもしれません。であるならば、まさに真正バイアス人材です。人へのアプローチとして虐めが愛情表現というバイアスを持っている人間を教師に認可する今の制度には呆れざるを得ません。しかしこれが現代社会の構図なのです。

 

最近脳科学の分野で、虐めなどが原因のトラウマは、脳の運動と学習に関連する部分を萎縮させて深刻な思考作用の弊害や感情のマイナス偏重を生み出すということが証明されてきています。特に幼少期のトラウマは、大人になってからも健康や思考能力に悪影響を与え続けると云うことが深刻視されてきています。またそれによるストレスは遺伝子レベルで受け継がれてしまう可能性があるということも明らかになってきています。

今、世界中で3人に一人が虐めの経験があるというデータが出てきていますが、遺伝的な連鎖で人がマイナス偏重に傾斜し続けていったら早晩社会が破綻することは必定です。既にその傾向は出つつあるように思えます。

ともあれ、そのような虐めを生み出す行為を発想する思いがアンコンシャス・バイアスから生じているとすれば、これはもう真摯に取り上げないと大変なことになります。特に企業や組織体では、崩壊の主たる原動力として隠然と存在しているということに刮目するのは経営活動の根幹と云えるでしょう。

今まさにバイアス・マネジメントが経営の中核的課題として取り上げられなければならない時代に入ったということは間違いのないところです。皆さんの刮目に期待します。

 

さて皆さんは「ソモサン?」。

 

JoyBiz 恩田 勲