職務主義と職能主義の裏側に潜むもの

皆さん、こんにちは。

~曖昧な職務割り当て

職務という言葉があります。一般には人が担当している任務や仕事を云いますが、欧米では定義通りに個々の人物単位で行われるという捉え方をしているのに対して、日本では職場単位で仕事が行われるという捉え方が基本となっていて、実際に日本では職務という括りはないに等しくなっています。

職務は従事者の仕事を特定の共通性によってまとめた単位で、その内容は従事者の力量や会社としての価値などを如実に表し、人事管理上非常に重要視される領域です。そういった従業員の組織内でのアイデンティティを明示する職務という単位が、集団単位での捉え方によって不明朗なのが日本の生産性に大きな歪みを発生させています。そもそも日本が職務を個人に帰属させないのは集団主義の思想が元になっています。

集団主義は経済学では集産主義と云いますが、この考えは社会を構成する個々の個人的な価値よりもそれを合計した方が価値があるとして、個人的な権利よりも集団の権利に優先順位を与えるというのが本来の主旨です。集団主義に対するのが個人主義ですが、両者は集団社会を維持していく上でシステム的に常にバランスを持って機能しています。

ところが日本の場合、ほぼ単一民族であるということや侵略による交配のような歴史が無く、それが地縁や対面的な場の関係といった属人的で感性的な人間関係に偏った結束を強めることに繋がり、かなり集団主義に偏った心理に基づいた社会文化を構成しています。これは世界でも独特な集団主義の在り方といえます。日本人は世界の中で最も「集団で行動し、利益を相互享受することを望む民族である」と認知されているのです。

そういった背景の中で日本人は、組織における個々人の生産性を明示する基点としての職務すらも家族経営という言葉に代表されるような集団という曖昧な単位の状態にしてしまい、その範囲を組織活動における全ての仕事にまで広げてしまっています。そして職能という上司が感覚的に枠組みした範囲における職務遂行能力によって生産性を測るという、仕事の出来高よりも人間の地位によって評価が影響される、実に属人的で不透明な単位が大企業ですら罷り通る実態を生み出しています。

つまり、仕事の物差しが情状酌量の中で運営されていることが前提の時短であり、経営効率であり、働き方改革という取り組みの実態なのです。

~意識改革では働き方改革はできない

このように職務が定義されない中での組織活動には様々な歪みが生み出されます。例えば、今日本人が取り入れているマネジメントという概念や手法は、あくまでも欧米のような個人主義や職務主義が前提で生み出されたものです。それを日本人は翻訳もなしに導入するという暴挙を行っています。

先般ある外資系企業で面白い状況に遭遇しました。先方のトップはご多分に漏れず向こうの方です。ですから仕事の進め方や評価はゴリゴリに職務指向です。社員に求めるのはひたすら専門性です。日本人でもそこは概念的には同じかも知れません。しかし、職務における専門性はあくまでもその立場における職務そのものです。

それはマネジメントに対しても同様です。職務で視る限りマネジャーはマネジメントに対する専門職なわけです。例え現場を知らなくても、現場経験が無くても職務としての専門性が問われるだけのことです。MBAという資格がありますが、これも経営職としての専門性が基軸です。ですから院卒直ぐでも経営サイドに請われるわけです。欧米では他の従業員がそれを疑問に持つ人はいません。組織内での相互関係も属人的で感性的な関係ではなく、あくまでも機能としての原則関係だからです。

ところが、日本の組織ではそこが全く異なります。日本では職能です。そこで云う職務は、暫定的で感覚的な取り敢えずの決め事です。酷い話では、直属上司の気分次第です。つまり、自分の能力を認めさせるにはある範囲の専門性を高めるというよりも、オールラウンド・プレーヤーでなければならない。全てに対してちょっとずつ上回ることが要求されるのです。

組織内の誰しもがそうですから、相互の影響力は自分よりも上か否かです。そうプレイング・マネジャーとして自分を率先させられる人でないと認めません。まして日本は高学歴社会。現場でも大卒が大勢の社会です。MBAだろうが何だろうが、「お前、出来るのか。俺をねじ伏せられるか」です。時には社長に対してですらそういう態度で望む連中がいます。権威もリーダーシップもあったものでありません。全てがお手並み拝見から始まるのです。

これが外資で派遣された経営者には分かりません。彼らの前提は職務だからです。地位における専門性を基にした論理としての相互関係が基軸だからです。向こうは徹底しています。採用も新卒などありません。専門性採用です。営業に付いたら死ぬまで営業職です。人事は死ぬまで人事です。転職しても基点は専門性です。

ゼネラリストとはスペシャリストを極めた上に出てくる階層上の任務であり仕事です。それ位向こうでは専門性を徹底します。だからこそ個人主義が全うできるのであり、個人主義が徹底されるのです。ドイツなどではマイスター制が徹底していて、肉屋さんでも国家資格が要る位です。

一方日本では、4月に一斉に入社です。しかもどこに配属されるかも分からない状態です。大学時代の専攻も専門性も関係ありません。専門性が関係ありませんから、大学などもより就職に有利な有名大学に集中します。どこの学部ではなく、どこの大学です。

また入社したら入社したで短期に場違いな部署へコロコロ移動です。製造から営業、営業から人事、人事から財務。まるで人事の仕事を自らの存在を示すように造注するためにやっているようにも見えてきます。これでは組織全体を知るには良いでしょうが、専門性など磨かれるはずもありませんし、それ以上に組織として専門性が積み上がっていくとも思えません。

日本の競争力の減退も、こういった組織の態勢や文化にあるのではないでしょうか。ともあれ働き方改革のための合理的な職務の創造などこれでは夢物語でしょうし、単なる見せかけの時短が関の山のように思え、憂いが耐えません。

日本がグローバリゼーションの中で再度競争ラインに乗ろうとするならば、現場や職場での行動改善レベルに逃げ込むのではなく、グローバルレベルへの意識改革、構造改革、そして社会文化の改革が望まれているのは間違いのないところです。小兵が幾ら叫んでも詮無いところですが、ほんと何とか出来ないものでしょうか。日々ストレスが高まる昨今の私です。

 

さて皆さんは「ソモサン?」。

 

JoyBiz 恩田 勲