能力限界と意識限界を考える

~原意識がつくる世界というものを理解する

以前より心の3要素として「知情意」を取り上げ、それぞれ「考え」「思い」「気持ち」と表現してきました。一般に考える力を「論理力」とか「思考力」と称し、主に人の持つ能力の一つとして捉えていることは周知のことですが、では思いはどのように認知されているでしょうか。

思う力とは云いますが、それを能力の一つとして捉えている人はかなりレアだと思います。思う力における力は、能力というよりも寧ろ熱量のような存在と云えます。その思いは、考えのように作用そのものを向上させるような存在ではありません。思いは作用といったプロセスではなく、リザルトとして存在する意識の概念だからです。

何だか哲学的になりましたが、要は考えと思いは別物と云うことです。私はこの2つを脳の作用として明確に分化して捉えていますが、世間では両者をごちゃ混ぜにしている人たちが多くいらっしゃいます。大凡思いという世界、哲学をきちんと認識していない人やお持ちになっていない人に多く見られるようですが、この認識の弱さが人材開発に大きな弊害をもたらしているのは忸怩たるところです。

 

人材の開発に長く従事する立場として、この2つの違いはある種致命的な結果を招き出すことは看過できないことです。人のパフォーマンス(行動による生産性)は4つの領域で成り立っています。つまりこの4つの限界が、パフォーマンスの限界を生み出すということになります。その4つとは、思考能力、意識、情熱、そして身体能力です。このうち前者の3つは心に由来する領域といえます。また意識と情熱は一体的に現出してきますので、大きくは能力と意識とに2分されると云えます。

よく組織でリーダーから「どうもうちのメンバーのパフォーマンスが上がってこないので手を貸して欲しい」と相談を受けるのですが、十中八九が能力向上のための教育研修、しかも知的学習の話になります。コミュニケーションとかリーダーシップとかマネジメントとかいったことへの方策や手立ての照会と刷り込みです。

しかし現実に現場で直面するのは、一言でいって「やる気のなさ」「ポテンシャル(姿勢)の低さ」です。気のない人に幾ら関わっても「暖簾に腕押し」です。こう云った場合、このリーダーは明らかに「意識の限界」を「能力の限界」と取り違えて状況を認識していると云えます。確かに能力の低さが意識の低さを生み出していることもあるでしょう。まさに卵と鶏の話ですが、そもそも初期の能力を左右するのも原意識の在り方です。

原意識とは、物心付く前後くらいに確立する「人としての初動的な基礎意識」と云えます。よく人間力という言葉を耳にしますが、人間力は今この時点における結果的な人としての意識や能力のことです。

人間力としてよく耳にするのは上昇志向とか負けん気といった言葉です。性格的な要素もありますが、その殆どは幼児期での学習と云えます。生まれたばかりの幼児は生きるために本能的に学習をします。その基軸が観察学習です。自分の周りを常に観察することによって得る学習です。親の動作や話す言葉、感情の動き方といったことで、こういった事象を観察して真似ることから言葉や立ち居振る舞いを学んで行くわけです。

平気で人に手を出したり、悪態を付くような家庭で育った子供は「人は傷つけてもいいものなのだ」と学んでしまい、平気で人に手を挙げたり口罵るようになってしまいます。これは実験によって証明されていることです。

こういった中に、利他心や利己心という観念も含まれてきます。人のために動くことを喜びとするか、自分の為に動くことを喜びとするかという意識、判断基準です。気を付けなければならないのは「自分の利となることを無意識に計算して他人への施しをする」といった行為です。例えば優等心からの手助けといった行為です。

一見すると判別しにくいのですが、時には自分ですら無意識で接している場合も多々見受けられます。こう云った場合、その殆どが「見返りを求めた」動きをするのが分かり易いところです。

この様な原意識は殆どが家族によってもたらされ、中でも母親の行動がロールモデルになるということが分かっていますが、その家族を取り囲む親族や村のような密着社会の影響、そして宗教的価値観の影響を強く受けます。ここで形成された原意識はそう簡単には変わりません。洗脳のような刷り込みや人生観が変わるような体験といった衝撃でもない限り、その人の根っ子としての判断基準として作用します。

幼児期にポジティブな基軸意識を形成したか、ネガティブな基軸意識を形成したかが人生を大きく左右します。私の経験でも、せっかく善意でアプローチした行為が凄くネガティブに受け止められ、しかもそれが常にそうである人や、人の噂話で直ぐに人の好意をネガティブに評価する人とやり取りする際、本当に悲しくなることがありますが、勿論本人は無意識ですから悪気はなく、どう接しようか悩むときがあります。

このように人には原意識という世界があり、それがその人の能力や行動にも作用して限界を作るのですが、これを能力限界と混同して幾ら能力アップを仕掛けても徒労に終わるのは必定です。皆さんも意識限界と能力限界は明確に分けて人材の資質を見ることを強くお薦めする次第です。

~人材育成は割り切ることが大切

さて、では能力限界ならば是正出来るのでしょうか。私は良く「意識で能力はカバー出来るが、能力で意識はカバー出来ない」と云っているのですが、実は意識を形成する為の能力という存在もあるのです。それも原意識に影響する原能力という存在が。

先だってネットで非常に示唆のあるコラムを目にしました。題名は「原体験的に教育を受けないと人はどうなるのか」。これを書いた人は幼児教育を研究する心理学者です。幼児がどのようにして世界のことを学んでいくのかを研究しているそうです。この学者はある時一つの疑問を抱えます。幼児が周りに何もない環境で、観察する対象や教えてくれる存在もない環境で、一人で育ったらいったいどうなるのだろうか。

しかしそんなことを実験することなど出来る筈もありません。そのような折り、彼は非常に希な出会いをします。生まれてから13年間父親に監禁され、小さな部屋に閉じ込められて教育を全く受けずに育った少女が保護され、その子をリハビリするために預かることになったそうなのです。その子を正常に育成できるのか。彼はまず言葉を教えようと試みました。さて、結果は。

 

その子は程なく2~3語の単語を使って会話が出来るようになったそうです。例えば、リンゴ、タベタイ、ワタシと云った具合です。ところがそれ以上の会話能力は向上しなかったそうなのです。1年経っても2年経っても。それはその子が「単語」は覚えても、「文法」を覚えることが出来なかったからなのだそうです。

複雑な文法、論理思考を修得できる柔らかい脳の幼児期を過ぎてしまったその子には、ついに「言葉の使い方」を理解することが出来なかったのです。どうやら人は、幼児期は文法や論理的思考を覚えるための脳が準備されているのですが、成長と共にその機能が失われてしまうということなのだそうです。

脳学者によれば、言語学習は左脳が司っており、幼児の左脳は柔らかく、色んな風に変形出来、文法という複雑な構造を脳の中に取り込むことが出来るのですが、次第に脳が完成するに従ってそれが機能しなくなるのだそうです。結局その子はトイレとか着替えとか日常の作業は完璧に覚えたけれども、最後まで会話能力は成長しなかったそうです。

結論としてこの心理学者は幼児期に何も学習しなかった子でも、言語以外は成長後でも学習することが出来ると述べています。

この少女の話はここまでです。問題は、論理的思考は幼児期に学習した以上には成長しないということです。この少女までとは云いませんが、私は日常でもう少し深く考えてみたらどうかとか、もっと抽象的ではなく具体的に考えろとか他の論理はないのか複眼的網羅的に捉えてみろといったやり取りに出会います。

特に多いのが漠然とした曖昧な論理でも話を納得したり、分かった気になったりする人が巷に余りに多いことです。私的には真に頭が悪いと云った人々です。使えない人材と評する人もいます。どうやらこの原因がこの物語の中に潜んでいるような気がしているのですが、皆さんはどう思われますか。

良く論理思考訓練とかクリティカル・シンクといった学習方式が喧伝され、それをそれこそ深くも考えずに導入する組織を目にします。溺れる者は藁をも掴む、といった心境なのでしょうか。そういったプログラムはミッシーとかピラミッドとか因果関係とかともかく技法、手法の紹介だらけです。また野球のノックのように何度も繰り返して癖づける云った類のモノばかりです。

しかしどうやらそれはあくまでも素地のある人や鈍っている頭をリハビリするには効果的ですが、先の原能力のように素地自体が脳内に形成されていない場合には、全く空虚な取り組みと云わざるを得ません。ほんと金儲け主義の教育屋さんの甘言に騙されてはいけません。

ともあれ、人材の思考力は原能力によって優劣があるのは必定だと考えた方が合理です。大事なのは、人材は適材適所。能力を前提とした使い方次第と云うことです。

どうやら能力の方にも能力限界と云わざるを得ない領域があるのが現実のようです。このことは、ポジティブに言えば多様性を重視するという事です。的を射た取り組みに皆さんも深く考えてアプローチをして頂けることを切に願う今日この頃です。

 

さて皆さんは「ソモサン?」。

JoyBiz 恩田 勲