精神医学と心理学は相容れないのか

~一方に偏る危うさ

精神医学と心理学は何が違うのかということを単純化すると、精神医学はその症状を「脳の異常」として捉える一方で、心理学は「心の働き」を基軸として論を進めていく、ということになります。言い換えると、精神医学は要素還元論的に心の働きを理的な作用として見るのに対して、心理学は社会構成論的に統合された個性的作用として文的に見るという違いがあります。

この違いは他の様々な分野でも見られる2大アプローチとして本来は複眼的に双方の視点から同時に為されるのが相応しいのですが、現代においても未だ協調が見られません。何故ならば、心の働きというものは対象たる物理的な存在がなく、分析論が前提にある医学とは結び付けられない世界だからです。

皆さんも日本の医学の幕開けが「解体新書」の翻訳とそれを実証するための鈴が森刑場での罪人の腑分けから始まったことはご存知かと思います。また心の働きは古来より個性や宗教、哲学といった世界との結びつきが強く、ある種禁忌な領域という価値概念が支配してきた面もあります。

しかしながら、人の病には心の作用からもたらされるものがあるという現実がある以上、何らかの策を講じなければなりません。精神医学はそういった時代の要請から、漸く200年前くらいから勃興してきた経緯があります。しかし実体のないものの分析がたやすくないのは当然で、現実的には今日に至るまで疾患の原因は科学的に分かっていませんし、薬物の効果についても同様です。

今ある疾患理論も薬物理論も仮説の領域を出てはいませんし、証明したり因果関係を導いたりする分析結果は何も存在しないのが実際です。それは詰まるところ、精神医学の全ては未だ主観の領域を出たものではなく、それぞれの医師の人格に委ねられているという危うさを内在しているということで、非常に非科学的な域を脱していないわけです。

それにも関わらず社会、特に日本社会では医学という名前が付くだけで深く探索することもなく科学であると盲信する悪癖があり、それが様々な問題を誘発しています。

中でも心理学との絡みにおいては、科学性という位置づけにおいては同等の立場にあるにも関わらず勝手に有意な認知をされ、実践的には心理学的なアプローチの方が効果的である手法に対しても、正当に目を向けられていないことが多々あります。

最近米国ハーバード大の教授であったジョン・カバット・ジン博士により、ウツに対する療法として「マインドフルネス」という瞑想法が有効であると認知され(これも同教授がハーバードという権威ある組織に所属していたからであり、そうでなければここまで普及したかどうかは疑問です)、この技法が投薬と変わらぬ効用があると社会保険の適用を受けたのは喜ばしい限りですが、それでも日本では相変わらずの投薬療法に固執した医師が大多数なのが現状です。

またこれは私自身が経験した話ですが、明らかに広汎性発達障害と思われる事象に出会い、診断を促したケースにおいて、何処で診断してもウツとか新型ウツと診断され、直ぐに投薬を促されて閉口したことがあります。そしてこの診察代がべらぼうに高い。その後偶々出会った精神科医の医師が近い関係であったこともあり、紹介を得て的確な診断を貰ったのですが、その際東京においてこの領域に専門性を持つ医師は殆どいなくて、全国でも指折るくらいと聞いた時には呆気に取られた次第です。

この医師は、自分も専門外だと正直に教えてくれましたが、実際世に看板が出ている「心療内科」の数を見る限り、一体彼らはどういう思いで困った人に対峙しているのか義憤すら沸き起こる思いです。下手をすると、薬が先に開発されて、その薬を売るために都合の良い疾患が作り出され、更にそれで金儲けを企む医師が歪んだ病人を世に作り出しているという構図が見え隠れする現実もあるということです。社会不安障害、気分変調症、軽度発達障害、ウツなど本当にそうなのか、彼らは疾患者なのかを疑う局面が噴出しているのです。

アメリカでは更に病気の定義や種類を拡大しようとする精神医学会に対して、心理学会の部会長が公開質問状を公表し、「現代の生物学的精神医学には科学的根拠がなく、短期的には有効性が認められたとしても長期的には副作用的作用があり害を及ぼすものが明らかになっている」と抜本的な改革を求め始めています。その中には、元々は精神医学会の重鎮であった博士も交じって箴言を行なっていることは重要です。

ところが日本では医者は聖域であり、医者自体も何を勘違いしてか「自分は特別だ」「自分は人よりも賢い」と錯覚して人の箴言や忠告に耳をかさず、歪んだプライドからの自己正当化と睥睨姿勢に終始する様はまさに滑稽に値しますが、それよりも問題は事態がそれによって進歩したり改善したりしないことにあります。これまでも論じてきましたが、知的に頭が良いのと意的に賢いのは異なります。人間性の教育がされていない、自らを内観できない人材はその頭の良さが返って害となることもあるのです。

昨今では現場での精神医学的視点でしか人を判断できない人々が心理学的視点を持たず、明らかに広汎性発達障害に値する人材を平気でテレビなどに登用し、その発言を面白がったり、またそれによって多くの人の心を不快にさせたり傷付けることを何とも思わない風潮がありますが、それは本当に悲しい限りです。

かといって、心理学による心理療法が良いといっているわけでもありません。精神分析療法や認知療法、来談者面談療法など様々な療法がありますが、実際にはこの療法によって返って症状が悪くなったという実例もあるわけですから、これも盲信は危険です。要は人の心の働きは未だきちんと解析されたわけではないので、取り扱いは最新の注意が必要であり、応じた学習を誰しもが為す必要性があるということです。それだけダイバシティやアジャイルといった複雑性の度が増し、今後ますます心の問題が頻出する中で、両者の協調が強く望まれるのは必定です。

~精神医学偏重がもたらす弊害

そういった中で筆者が最も強く感じるのは、精神医学に頼り切った日本社会の心の問題に対する取り組みがもたらす偏りです。

多くの人が無意識的には承知しているのが「医学」という概念の本義です。今や予防医学という分野も出てきましたが、基本医学は治療が目的です。つまり、何か弊害が起きた時にそれを平準化する受け身の世界です。そこには促進的な発想は殆どありません。悪くなったものを良くしたり、歪んだものを矯正したりするのであって、今よりもっと良くするとかパワーアップするという発想はありません。

ですから、いくら医師に相談しても健康管理的なパワーアップはあっても、傷害がないものをポテンシャルアップしようということへの助言は上手ではありません。このことを医師自体も理解していない場合が多くあります。マインドフルネスなどのプログラムも基本はあくまでも歪みの矯正ですし、それ以上の効果はフロックです。

ところが最近の人の心の働きに関する問題で最も核となっているのは、普通は普通であり障害というわけではないが、ポテンシャルが低いとかどうも生きる熱量が低いといったインフラ的な問題です。やる気とかガッツということもそうですし、果敢に新しいことに挑戦していくとか圧力に対してそれをバネにするようなレジリエンスもそうです。これらも全ては心の働きの問題です。そしてこれらは精神医学ではなく心理学に属する領域の問題です。

ところがマスコミを始めとする知識人の関心はひたすら精神医学です。テレビもその殆どが医者の登壇です。これこそ日本人の歪んだ科学信仰やそれに基づいた権威主義がもたらす損失です。彼らはプロですが領域が違うわけです。それにも拘らず門外漢にコメントさせる無責任さ。まるでワイドショーの世界です。だからいつまで経っても望むべき問題解決が為されないのです。意識が低い人による意識低下の進展という悪循環が進んでいる感を強く持ちます。

 

今、組織の命運を握るのは、人の心の作用がもたらす組織行動の在り方といえます。私たちはもっと真摯、そして謙虚に人の心の働きに対して関心を持ち、有効な知見を身につけなければなりません。そしてバランスの良い的を射た問題解決策を手にしていかなければなりません。そう私は強く思います。

さて皆さんは「ソモサン?」。

JoyBiz 恩田 勲