アンコンシャス・バイアスの本質を考える

 

皆さん今日は。

ソモサンでも最近取り上げているアンコンシャス・バイアスですが、大企業を中心に徐々に広がりつつある気配を感じます。

この概念の主旨は元々弊社でLIFTというプログラムのIntention Treatment(意思の調整)として永らく主張している部分と同意なのですが、弱小たる弊社が微々たる声を張り上げても詮無いことですので(事実レジリエンスの時もマインドフルネスの時も一生懸命主張を展開していたのですが、後発でも大手が力を持って追い越していってしまい、気が付けば便乗的な見方をされるようになってしまっていました。残念無念)、この際同じ轍を踏まないように名称には拘らず、まずは時流の先駆けに乗っかるようにしました。

しかしながら今喧伝されつつあるアンコンシャス・バイアスの定義には少々違和感があるので、今回はそれをテーマに話を進めてみたいと思います。

 

今、日本で普及され始めている勢力としてのアンコンシャス・バイアスは、またまたアメリカのGoogle社によって提唱されたプログラムを起点としています。マインドフルネスの時もそうですが、日本人がせっかく国内に禅のような素晴らしい技法を持っているにも関わらず、欧米信仰による無修正逆輸入でブームを生み出すのは数知れずで、最近は今更それを問題視しても空しいだけであるという境地に達している筆者の心理です。

しかしそれがせっかくの技法の効果性に影響を及ぼすとなるとやはり一家言せざるを得ません。例えばマインドフルネスは禅の技法が中核になっていますが、禅による瞑想法はその中核に東洋オリジナルの人間観や思想観があり、特に宗教観に関しては欧米と折り合いが付かずに結局そういった精神面を除外した肉体的な技法に再構成されており、それが逆輸入の時も考慮されておらず、結局一過性のブームに終わりそうになっています。これまでもそういったことが原因で普及浸透しなかったモノが一杯ありますが、中には本当に勿体ない技法が存在していたのは間違いのない事実です。

マインドフルネスの様な技法は、長い歴史の中で精神性や肉体性を統合した実に包括的なアプローチであり、欧米的なやり方をそのまま日本に導入しても望ましい効果は得られません。マインドフルネスはその最たるモノですが、当然思うように普及し切れておらず、Google版での取り組みは徐々に下火になりつつあります。嬉しいことに一部の禅の僧侶たちが、どういう理由であれ日本人が失いかけているこういった精神性の世界に焦点が当たったこの機会を逃さないように、改めて東洋的な精神性を盛り込んだ瞑想法を普及すべく奮闘しています。

 

さてそのGoogle社では、マインドフルネスではカバーできない心の問題解決の技法としてアンコンシャス・バイアスというプログラムを打ち出してきました。流石に的を射た着眼点は素晴らしい所があります。そして悲しいかな、またまた日本の一部の教育業者が新たな儲け口としてそれに飛びつこうとしています。それを示唆する書籍や翻訳本が溢れ出始めました。

しかしアンコンシャス・バイアスは、マインドフルネス以上に精神性に直結する取り組みとなります。欧米と精神性が異なる日本においてこれを無修正で導入すれば、マインドフルネス以上に残念な事態を招きかねません。事実、聡明な大手の企業担当者からはこういった業者からのアプローチに対して違和感を訴える声が出始めています。アンコンシャス・バイアスはマインドフルネスよりもロジカルなアプローチですから、論理的な違和感が浮き彫りになり易いわけです。

 

ではその違和感とは何でしょうか。Google版のアンコンシャス・バイアスは、バイアスの正体を自己防衛心(彼らの定義ではそれは「自分に都合が良い解釈」)に限定させています。しかしながら、バイアスの実体は自己防衛心だけではありません。自己防衛心とは、自己に対するネガティブな感情を引き起こす事象への反射行動です。つまりは、自己保身がもたらす受け身的な偏見になります。

ところが人が描く心理には、その人の体験や教育によって醸成されるバイアスがあります。例えば、当然と思って為される見方や良かれと思って為される見方です。しかしこれは必ずしも「合理的な信念(rational belief)」ばかりではなく、「非合理的な信念(irrational belief)」もあります。そしてこれらは前向きな心から発せられるので、バイアス自体に気が付かず、アンコンシャス的に発せられやすいのが特徴的です。

例えば、認知バイアスにはポジティブである自己像を欲する気持ちが動機となって生じる自己中心性バイアスがあります。これによって、現実に起きていることとの間で生じる認知的不協和を解消しようと心に非合理的な信念(イラショナル・ビリーフ)を刻み込み、常にあることに対して自分が正しいといった思考のバイアスを作り上げます。

そして自分にとって都合の良い情報だけを取り込んで、自分のビリーフを強化していきます。そうなると、自分の意にそぐわない情報は端から耳に入らなくなります。当然自戒も内観も起きません。そうして先入観に基づいて他者を観察し、自分の観念を補強するように質問したり判断したりするといった確証性バイアスが作動し始めます。

そしてそれは正常性バイアスを誘引させます。常に「自分は正しい」と認知する反応です。これが状況に対してその影響を過小評価し、個人の特性を過大評価する恒常性バイアスをもたらします。天変地異が起きたときに「自分は大丈夫」「今回は大丈夫」といった認知作用です。このように認知バイアスは、人として自己保存の本能を前提に誰しもが無意識に発動されるバイアスで、必ずしも防衛機制(defense mechanism)のように受動的反応的に発動されるモノだけではありません。

更に自分は正しいという認知は、スタイルの違う相手に対しての物腰や物言いといったアプローチに現れます。具体的には、統制タイプの人がコミュニケーションを取るような場合、本人は無意識に行っていることが他のスタイル、例えば支援タイプの人から見ると「上から目線」に映る、と云った齟齬が起きることがあります。こう云った齟齬が、論理よりも感情としての摩擦を生み出すことに繋がります。

 

また、社会的バイアスの典型は米国の人種問題などで顕著に見て取ることが出来ます。あるアフリカ系アメリカ人の方が分かり易い説明をされています。

「日本人の人種に対する意識は、特定ではなく異種に対する恐れである。村社会で余所者を警戒する感覚といえる。従って馴染むと差別はない。違った人種への偏見はあるが、差別ではない。区別である。一方アメリカ人は明らかに差別である。アフリカ系は『声が大きい、口汚い、常に怒っている、態度が大きい、知能が低い、文字が読めない、貧困、泳げない、スイカが好き、フライドチキンしか食べない、皆ドラッグディーラー、犯罪者』という見方である」。まさにこれは差別意識からくるバイアスです。

これは日本のような防衛心によるバイアスではなく、社会的な刷り込みから来る認知バイアスがもたらす反応です。実は日本の場合、こういった認知バイアスから来る問題の方が防衛心よりも大きな影響を及ぼしています。これは日本人のローカル的でかつ閉鎖的な集団バイアスが大きく影を落としていることに起因する、日本ならではの社会風土です。忖度心などは、欧米には理解できない独特のバイアスといえます。

 

では何故Google社は自己防衛心にアンコンシャス・バイアスの焦点を当てたプログラムを展開するのでしょうか。先にも話しましたが、ここに欧米と日本の社会文化や重要視する価値観の違いが現れてきます。欧米は社会的な多様性から、スキーマや社会性における認知バイアスの違いにはかなりの配慮をします。下手をすると殺し合いや戦争に発展するからです。

ですからこういった領域におけるバイアスにはかなりナーバスです。一方で主張もはっきりとするようにある意味戦闘的な心性が基軸で、自己防衛心からもたらされるバイアスに無警戒な側面が多々現出します。だからこそ自己防衛心の存在とその解消に目を向けさせる要請が起きてきます。彼らは意外と自己防衛心から生じるアンコンシャス・バイアスに脆い側面があるからです。

一方日本人は自己防衛心からもたらされるバイアスには気を使います。寧ろ使いすぎるくらいです。自責に囚われすぎる国民といえます。従って自己防衛心によるバイアスは常に気にしているので、それによって齟齬を生じることは多くありません。それよりも、当たり前という認知に基づいたバイアスの方が、特にグローバルでは問題を起こすわけです。実際、最近至る所で閉鎖的な価値観から来るアンコンシャス・バイアスによって、対人観に亀裂を起こすことが頻出しています。男女間、年齢間、親子間、地方間、収入間等々、偏った平等観や常識観によって齟齬が起きているのです。

 

さて、ではこの違いは何処から生じているのでしょうか。実は人が行動をする起点として意欲やそれを喚起する動機、モチベーションがありますが、それには接近モチベーションと回避モチベーションという2つの動機があります。人は誰しも生存のために未知を開拓しようと進んでそれに近付こうとする意欲と同時に、危険から逃れるためにそれから逃げようとする意欲という両面価値をもっていることに起因しています。その本性は育つ環境によっても影響されますが(ほぼフィフティ・フィフティと云われています)、日本人は集団主義の中で自己存在しようとする経緯によって、欧米人よりも回避モチベーションが強い民族と云えます。

この回避モチベーションに導かれて出てくる条件反射が自己防衛心です。ですから日本人はどうしても民族状況からして回避モチベーションを基軸に行動を起こす特性を有しています。一方、民族大移動や多民族が入り乱れた特性上、欧米人は接近が回避を凌駕する意識反応を示す傾向が強く、そのため回避モチベーションを起点とした自己防衛心に無関心な態度行動を取りがちと云えます。

人は大凡苦手な領域に対してカバーを求めますが、そのためか欧米では自己防衛心に警鐘を求めるアプローチに焦点があたりがちです。だから欧米発のGoogle的なプログラムは、防衛心を中心においたアンコンシャス・バイアスに焦点が当たることになってきます。

一方、先述の如く日本人は寧ろ自己防衛心には関心を強く持つ傾向にあります。これが強いとスムーズな対人関係に支障が生じてくるからです。それにも関わらず、日本人は頻繁に的を外した欧米型のアプローチに深く意味も考えず傾倒してしまいます。これは黒船を機とした欧米コンプレックス、そして敗戦による欧米の同化教育による欧米盲信の影響です。これこそ正に、社会が集団的に経験を通して身につけてしまった社会的バイアスに根ざしたアンコンシャス・バイアスによる反応行動の典型といえるのではないでしょうか。

 

ともあれ日本人の本質的ニーズにそぐわない欧米贔屓の論階を無知蒙昧に取り入れる意思のない姿勢は勿体ない限りです。

さて、皆さんは「ソモサン」?