知と意を関係付ける理を啓発する

皆さんこんにちは。毎日暑いですね、これを書いている今日はお盆の最終日ですが、皆さんはどの様な日々をお過ごしでしょうか。

丁度この原稿を書いている最中に速報で、世間を賑わしている「あおり運転傷害犯」が大阪で逮捕されたという情報が入りました。

ということで今回はそれをネタに話を進めたいと思います。今回の事件に対して各界の様々な方々がコメントをしていますが、その中で落語界の立川志らく師匠が含蓄のあることを仰っています。加害者について志らく師匠は、「一生涯、車に乗れないような法律にして欲しい」と訴えました。その上で「どんな重い罪にしても、頭が悪いから理解できない。いくら強くテレビで言ってもポカンとして何も分からない。おまけに人の心がないから、もうこういうのはどうにもなんないですね。本当に法律上ひどい目にあわせないと自分の身で痛い思いをしないと絶対に分かんないです」と指摘されました。

私は常々人の行いは考え(知)、思い(意)、気持ち(情)の三位一体で為されるとこれまで何度もソモサンで主張しましたが、未だに知と意の違いが分別できない人がいらっしゃる様です。幾ら細胞を集めても人にならない様に、幾ら知を集めても意にはならないのですが、この辺の機微が要素還元論偏重の教育に染まった人には理解できない様です。主観ですがどうも工学系出身者に多い様な…。

冗談はさておいて、この違いを志らく師匠は喝破していらっしゃるわけです。

 

最近非常に勉強になる書籍に出会いました。精神科医である宮口幸治氏が書いた「ケーキの切れない非行少年たち」です。

宮口氏は、少年院の様な所にいる少年犯罪者に対する実践経験の中から非常に核心のあることに気づきます。普段は穏やかで人懐っこい子が、何故非行を起こすのか。それは、不器用で力加減が出来ないこと、それ以上に見る力、聞く力、見えないものを想像する力がとても弱いがために周りの状況が読めなくて対人関係で失敗したり、いじめに遭ったりしていて、それが非行の原因になっている、ということに行き当たったのです。例えば簡単な算数ができない、漢字が読めない、図形を模写できない、構文の復唱が出来ない、などといったことです。

本の表題になっているのは、宮口氏がある粗暴犯を前に丸いケーキの絵を出して、「これを3つに等分して欲しい」と問いかけた話です。彼はいきなりケーキを縦に半分に切って、その後身動きが止まってしまったのだそうです。つまり思考がそこで停止してしまうのです。

当然そういう人たちに幾ら非行の意味や反省といったことを問うても、相手の気持ちを考えるとかいっても右から左に抜けるのは目に見えることです。正に反省以前の問題なわけです。彼らはそのために社会的に挫折するだけでなく、その後も走った非行の是非や後先を考えることもなく、常に思い付きで問題行動を繰り返すことになります。安易な結論に飛びついて動くわけです。考える能力のない人に反省や葛藤があるはずがありません。日々感情の赴くままの行動に終始します。こういう人は思いが形成されていませんから、気持ちという衝動を抑える術も持っていません。

思考力が乏しいと言葉の形成が出来ませんから、コミュニケーションが下手で対人関係も苦手、融通が利かない、思い付きで行動する、直ぐに感情的になる、相手の事を考えずに行動してしまう、力加減が出来ないなどといったことが起きます。最も顕著なのは、見たり聞いたりしたことをまともに認知できないということです。状況や相手の非言語情報が理解できず、コンプレックスを前提とした決め付けによって事実を歪めて認知してしまうのです。馬鹿にされたとか嫌われている、といった具合です。

宮口氏の含蓄のある話の続きは書籍でお読みいただけると幸いですが、皆さんはどう思われますか。

 

ともあれ、ここから「考える」という「知」と「思う」という「意」の関係性の本質が見えてきます。宮口氏は、意を形成する上で求められる認知機能や思考力という基礎力としての知という存在を明確に意味付けしています。ここでいう知は、物知りとか演算処理力としての知ではありません。物事を洞察したり認識し判断したりする読解力としての知です。これこそ意の形成を支える知です。的を射ない知を幾ら高めても意が高まるわけではありません。今の学校教育で欠落している領域とも言えるでしょう。

こうしてみると宮口氏の話は様々な人たちにも当てはめることができます。宮口氏は非行少年を扱っていますが、今の日本では学校教育や家庭教育の弊害で例え大卒であっても、社会人として生きていく上での読解力や認識力、想像力という領域での意に欠けた人材が至る所に存在するという事実があります。その原因はまた改めて紐解こうと思いますが、先だって地方紙である倫理学者が面白い寄稿をしていました。

「今の世の中は誰かに向けて非難の言葉を発することには責任が伴う、ということが忘れられてきている。当然心の中で何を思おうと責められるべきではないし、内輪で話のネタにする分には罪は無い。しかし一旦その内容が相手に伝わるまでの手段で、しかも相手が反論できない状態で責め立てるとなると話は違ってくる。それもネットにおいて匿名で気軽に言葉を発散し、不特定多数の人に直接届く様に振る舞う。これは自ら書き込まなくても「いいね」で拡散に加担すればやっていることは同じである。

このように自分自身のことは度外視して安全なところから他人の過ちを糾弾し、正義を振りかざす。その一翼を担う人たちは、自分自身が引き受けられないような決して過ちを犯さない、道徳的に完璧な人物像を基準にして他人を私的に制裁する。しかも強い公権力も持たぬ者に対して覆面を被って群衆に紛れ込んで寄ってたかって罵声を浴びせかける輩が増えている。そしてそういう輩は同時にリアルな世界では自分はそういう目がつけられないようにひたすら目立たず、力の強い方や声の大きな方に沿う言動をし続けようとする。

その様な態度の蔓延が、今の極めて閉鎖的な社会を生み出している。人々が強大な者に萎縮し、順応し、同化し、特定の個人の排除を繰り返す社会である。言葉が人を作り、社会を形成する。だからこそ我々は自分たちを見つめ、自分で責任を取り得る言葉を探すべきであり、安易に誰かを叩いて蔑む言葉に頼るべきではない。必要なのは、我々自身が不完全で脆く、しばしば過ちを犯す存在であることを受け止めつつ、その中でなお倫理や理想を語る言葉を紡いでいかなければならない」。

 

まさに今こそ思いを司る意の世界に真摯に向き合い、アンコンシャス・バイアス(無意識の歪んだ思考)やイラショナル・ビリーフ(非合理な信念)が社会や組織活動の秩序を乱さない様な心の補正教育、調整教育が求められているのではないでしょうか。

さて皆さんは「ソモサン?」。