異文化圏からみた日本人とそのマネジメントを考える

おかげさまでソモサンも60回を迎えました。大凡1年以上続けさせていただいたということになります。元々ソモサンを始めた動機は、弊社JoyBizが設立された思いを社長自らしっかりと主張することでした。それは、人には心というものがあり、思いや気持ちのない者に幾ら考えや理屈を提供しても「ザルに水」である。人や組織の能力を向上させるには先ず心の整備をしなければならない、という思いでした。

心とは古くは東西に関わらず、哲学として知情意の3元論として理解されてきています。その内知と情は出入力の働きを司っており、それらを意が中央集積回路のような働きをして支配制御しているということから、意の開発の重要性を多角的に紹介し主張して参りました。

しかしながらまさに思いや気持ちのない者にと出だしに象徴される如く、一年を通しての反応はディープに共感して購読下さる方と全くそれこそ意に介さない方に2分化されている状態になっています。書き手としては出来る限り普及させたいと拘るのですが、それが却って二極化の度を深める結果となっているのは皮肉なものです。また本当に気付きを持っていただきたいと願う方が反応せず、寧ろ理解されている方々がJoyBizはそれだけを手掛けている会社なのかという認識に偏り、ソモサンが本意ではない存在になりつつある感を抱いています。

ということで年号も令和となり、2019年も半年を経て「夏越の祓」も終わったことですので、JoyBizもマーケティング態勢を見直し、メルマガを始めとして広報活動も刷新することに致しました。その流れでソモサンの位置づけも改めることに致した次第です。

今後ソモサンは不定期配信の社長ブログとしてホームページ中心に掲載し、メルマガでは案内を掲載させていただくことにします。そしてこれからのメルマガは、よりトレンドにビジネス市場の動きやマネジメントの流れを捉え、時にはエッセー的な内容も盛り込みながら、弊社の若手を中心に展開させていこうと計画しています。

また、メディア的にも今後はTwitterFacebookYouTubeといったパブリシティーを駆使して多様にJoyBizの活動をご紹介させていただこうと思いますので、引き続きご愛顧願えれば幸いに存じます。

さて、ということでブログ移行後最初となる今回のソモサンですが、今回は意と知を繋ぐ「思うと考えるの世界」、つまり思考について取り上げてみたいと思います。

~日本人は論理性がないのか~

海外の方の疑問として良く耳にするのが、日本人の論理性の無さです。小国でありながらもノーベル賞を多く受賞したり、技術立国と称されたりする日本ですが、彼らが実際に日本人とコミュニケーションすると、その実力が分からなくなるそうです。

その原因を彼らに聞くと、一様に「論理思考」の弱さを指摘します。科学技術は論理の結晶ですから、彼らが矛盾を感じるのも道理です。論理の基軸は分析です。つまり前回ご紹介させていただいた要素還元論の支柱を担うところです。彼らは自分たちの起点となる価値観を前提にモノを見ますから鵜呑みは危険ですが、一考の価値もあります。

彼らはこう云います。「日本人はデータを軽視し、自分の歴史や思いこみで判断する。そして自己正当化を基調にモノを見るので、データとしての情報が偏っていたり歪んでいたりする。特に新しい情報、現実に関する情報に目を向けようとしない。その時その時の思考や判断に必要な情報やデータをきちんと仕入れ、分析しない。そうして流行り言葉に乗せられて、自分に都合の良い解釈をして甘い考え方をする。」あるいは、「日本人は念仏さえ唱えていれば極楽浄土に行けると思うレベルと変わらない思考をする」といった物言いなどは仏教界からクレームが付くかもしれませんが、一理ある発言です。

例えばどんなに良いものでもそれが普及しなければ意味を為しませんし、事実として普及されない場合に何故それが普及しないのかという構造的な問題を検証しないで、ただ「きちんと普及さえすれば」といった観念論に終始する日本の政財界のマネジメント姿勢をみる限り、あながち間違っていないと思えるわけです。海外の人は、それに誰も気が付かないという状況にも驚くそうです。

私自身コンサルタントとして一番驚かされるし、また腐心するのも「計画さえ作れば動くはずだ。動かないのは計画が甘いからだ」という全く論理的でない思考です。それも組織のマネジメント職や上位団体という、ある意味知性が高いというか論理的であるはずの人々ほどこの考え(思いこみ)が在るという事実です。これまで何度も計画を作って動かないという経験をしながらも、何故動かないのかという検証をする気配すら見えません。これでは海外の人のみならず、誰がみても論理性があるとは云えないでしょう。

~思考と行動における日本文化の特徴~

では本題です。日本人は何故こうも論理的に考えないのでしょうか。これには大きく2つの日本の文化が育んだ行動様式、つまり国民的意の在り方が影響しています。これがグローバリゼーションにも大きく影を落としています。何せ日本固有の行動様式です。別の価値観で育った海外の人には、それこそ違った論理の道筋として理解しがたいモノがあります。それが意という世界の持つ深淵さなのです。

日本で成功する海外からの方の共通の特徴として、「ある種日本びいきである」ということが挙げられます。これは「郷に入れば郷に従え」という本来の柔軟さを持った個人的な意の持ち主であることに加え、日本の行動様式に前向きに目を向けその特徴を理解しているという意味です。

時には日本人以上に日本の行動様式に熟知されている方もいらっしゃいます。政治家としてのエドウィン・ライシャワーさんや日本学者としてのドナルド・キーンさんの様な方もいらっしゃいますが、デーブ・スペクターさんやケント・ギルバードさんの様なマスコミ界の方もいらっしゃいます。またシャネルの日本法人を立ち上げたリシャール・コラスさんの様な経営者の方々もいらっしゃいます。

皆さん一様に日本の文化を研究し、知よりも先に意を理解されて論理立てを行っています。最近では漫画やアニメを通して日本通になる海外の方もいらっしゃいます。このような方々は、良し悪しは別として日本人の論理立てをそれこそ論理的に受け止めてから自分の論理を適合させてモノを考え、語り、上手く日本人を機動させています。

では日本人らしい2つの文化、意とは何でしょうか。

一つは集団主義による同質(と錯覚している)文化です。長年変わらない同じ様な生活様式にどっぷりと浸かっている中で、また歴史的に異文化から価値を強いられることが殆どなかった中で、人と人との価値観はそうは変わらないと思いこんでいたり、違いを出すことよりも和を崩したり和から排除されることを恐れる方が先に立つという意識を強く持っていたりする、ということです。

学校や会社での虐めの構造をみても一目瞭然ですが、日本人はマジョリティーから外れることを戒められて生きてきた文化が非常に長く続いてきました。その為マジョリティーから外れることを異常に怖がりますし、それが染み着いています。人の顔色を見ながら言を変えるということが頻発します。そこから出来上がった海外の人が驚嘆する態度が、我慢強さというのも面白い側面です。

海外の方が日本人と結婚してビックリするのは、議論をしないということだそうです。意見が合わないときに、例えそれが感情的な内容に発展しても日本人は自分の主張をせず押し黙るそうです。だから相手が何を考えているかが分からず、中々問題解決しない。或いはある時ため込んでいた感情が一挙に爆発し、修復不可能になるのだそうです。

人は本来違う価値観を持っている存在なのだから、意見を出して議論してこそ理解と解決があるというのが海外の人達の普通で、それが彼らの論理性を作り上げる原動力にもなっています。日本人は内包的に推し量り、海外の人は外延的に主張する。全く異なったコミュニケーションの在り方です。同質性が高い時代には推し量りも、ある程度思い込みでも通用しますが、今の時代には却って乖離を生む結果にもつながりかねません。

反面、海外の人は言われないと分からない鈍感さがあります。それも明確に言われないと推し量る力が無くて主張ばかりしてきます。彼らにおもてなしとか勿体ないと云っても果たしてそれが出来るかどうかはなはだ疑問な所です。

ともかく日本人はまず議論のようなコミュニケーションに慣れていません。コミュニケーションには他者の情報を取り込んで情報を拡張したり、自説を拡張したり軌道修正したりする力があります。ですからコミュニケーションは、独考だけで偏った思考に拘泥する日本人がグローバルで使える論理性を身につけるには重要なスキルなのですが、先ず持ってコミュニケーションに慣れていないのですから話が始まりません。

コミュニケーションにおいて、傾聴力、主張力、創造力(情報の異質な再構築力)の開発は大前提です。但し慣れないのに任せ放しは危険です。コミュニケーションが蛇行するだけです。その内諦め感や嫌感が蔓延します。必ずファシリテーションが必要になります。

この辺りは、日本を知らない海外の方がマネジメントで自己の文化や価値観だけで物事を見るが故に失敗をし、その轍にはまり23年無駄にする要因です。酷い話、離日する一年前くらいに漸く気付くも時すでに遅く、本国の評価を下げて帰国するというマネジャーを目にします。この点、海外の人も論理的な人ばかりとは言えないようです。

そして2つ目は、横の論理的な繋がりが出来ない中で生み出される衆愚回避のリーダー依存です。横の連携が致命的に弱い日本人ですから、責任分有という発想がありません。また頭に描いてもそれ自体が腹落ちできません。結果、トップを始め上位者に全責任を依存するという従属的な行動様式を好みます。

終戦直後、占領軍が天皇制を方向付けるときにこの日本人の文化特性を見抜き、天皇象徴性を導入したのはこういった下地がありました。欧米においては一神教で絶対的な神がその機能を担っていますが、日本は元々相互依存的な集団主義文化に加え、天皇は絶対的存在として国体を築いてきましたから、その喪失は国家レベルでの自暴自棄を生み出しかねない状況を醸し出していたわけです。

それでも天皇が絶対でなくなった直後の日本人は新たな価値観として経済行動に邁進し、エコノミックアニマルと揶揄されるまでに一転集中的に邁進します。まるでブレーキが壊れた車のように。これは、未だにそうは変わっていない日本人の特性といえます。

開放的な論理性(クリティカル思考)が醸成されていない日本人は内省したり、検証したりすることが不得手ですから、一旦目標が与えられると暴走するわけです。このように日本人は、自ら目標形成(結果目標)が出来ない中で民主主義という自主活動を行っているのですから、今の国会の現状など必然といえましょう。

強いリーダーを求め、ただ単に方向性を求めるだけでなく手の動き足の動き一本まで指示を求める意思の無さが基軸な人に対して、強権を持つリーダーが直接的なマネジメントをしたら一体何が起きるでしょうか。海外出身のマネジャーはそこを大きく勘違いする人が多いようです。自分は方向性を出すだけである。後は下の自己責任だとか、自分はアドバイスするだけで後は現場で咀嚼し判断すればいいなどといったマネジメントの理屈は、日本人の気質では成り立ちません。日本人は民主主義的には幼子と同じなわけです。

時にはカリスマでもない人が絶対的なリーダーのような振る舞いを行う場合もあります。しかし意図は別としても、日本人に対してカリスマのように(欧米ではそうでなくても日本人はそう受け止めます)振る舞った場合起きる悲劇があります。これは心理学者のヴィヨンが集団心性として発表しています。キリストの十字架の悲劇とも称される心理過程です。

これは依存心の高い民衆(自ら意志を持たない社員)に強権的で直接的なリーダーシップを発揮すると、それに従った民衆は責任一切を当該リーダーに依託し自己責任を放棄して活動する。そして結果が望むべく状況に至らない場合、その民衆は責任所在をリーダーに集中転嫁し、最後にはリーダーの梯子を外しに掛かってくるという心理状況を云います。実際にキリストは死後カリスマ化されましたが、歴史的には支持していたはずの民衆に裏切られ十字架に掛かるという悲劇に遭いました。

この集団心性によって社員から梯子を外されたリーダーやマネジャーは一杯います。だから日本人はマネジメントをしたがらず、自らプレイング・マネジャーとして一人で動きたがると云う行動特性が至るところで起きることにも繋がっているように思えます。特に海外から赴任したマネジャーの場合、云うことを聞かないからと云って海外のように簡単にレイオフした辺りから不信感が蔓延し、船の切っ先が渦潮の端っこに引っかかる要因になっているようにこれまでの経験からは感じる所です。

こういった話は大企業中小企業に関わらず、腹が括り切れていない、或いは巧妙心に逸るサラリーマン経営者や2世のような経験不足の経営者にも良く起きている話です。

 

さて皆さんは「ソモサン?」。

 

では、皆様今後はホームページのブログでお会いいたしましょう。