• 科学とは要素還元的な取り組みだけではありません。バランス良く科学しましょう

科学とは要素還元的な取り組みだけではありません。バランス良く科学しましょう

~偏りは歪みを生む~

皆さんは社会構成主義という言葉を知っていますか。これは、現実は、人間関係に代表されるような「関係性の中で構築される」と云う考え方で、事象は様々な要素が常に複雑な構成によって有機的に繋がって全体像を為しているので、全体は全体として捉えなければならないという観点に立つ概念です。ホロン(全体子)とかシステム思考といった概念も同じ視点に立つ考え方と云えます。

一方この考え方と対極を為すのが要素還元主義という考え方です。どんなに複雑な物事でも、それを構成する要素に分解し、それらの個別の要素を理解すれば、元の複雑な物事全体の性質や振る舞いも全て理解できるとする考えで、これまで自然科学を中心に、歴史的に論理立ての主流として扱われてきた考え方です。

両者はどちらも一長一短あり、バランス良く取り扱わなくてはならない両輪的な考え方ですが、どちらかと云えば前者は東洋的、後者は西洋的な思考方法としてお互いに偏りを呈しながら長年定着してきました。しかしながら日本は戦後進駐軍に思想統制されて以来、思想的自我を放棄して欧米に従属してしまった為、今日に至るまで大きく要素還元主義に偏った教育弊害に犯されてしまっています。その典型が学歴偏重主義です。学歴と云うよりも受験用知力絶対主義といった方が良いかもしれません。

 

さて戯れ言はさておきまして、その日本でも流石にそういった知力では今後の発展が望めないことを察したのか、21世紀に入るとシステム思考と云った概念を中心に社会構成主義的な考え方が見直され始めています。

まずシステム思考ですが、例えば要素還元主義の本質は分析であり、病気であればその原因を分析して根本を見出してそこに処置をすれば治癒すると云うのが西洋医学の発想です。ところが、実際はその治癒的処置が元で新たなる病巣が発症するということが多々起きてしまっています。

例えば、戦後に高度成長に対応しようと森の木を一斉に伐採した結果方々で洪水が起き、それに対して植林すれば治ると今度は杉を植林した結果杉花粉公害が起きたことも同様です。全体は単なる部分の合算ではなく、有機的に影響しあって関係の中で全体を形作っているということを考えた思考をしなければならないのです。

また未来を作り出す創造性、デザイン思考は間違いなく社会構成主義的な考え方の真骨頂で、幾ら分析をしたり、あるいはその要素を単純に羅列したり組み合わせたりしたところでイメージという創造的概念は生み出されません。

私的には昨今の学歴愚者問題にその歪みの弊害を強く感じています。学歴愚者とは知的には優秀だが人間的には愚か者、或いは幼児レベルの人材のことで、彼らが引き起こす問題が社会的に大きく影を落とし始めていることに深く憂慮を感じています。

学歴偏重主義で受験力という偏った知力を絶対的な能力と勘違いした若者や企業組織などが社会バランスに歪みを与えたり、健全な社会成長に大きく妨害を生み出したりしていることに何となくは気が付きながらも、自己正当化のウネリの中でその傷の度合いを修復不可能なレベルにまで深めていっていることへの危惧を持っている今日なわけです。 

自己正当化というのは、何処かおかしい、歪んでいると日々の現象では感じながらもその原因に自分も深く関わっているという後ろめたさから、あからさまにおかしいと云えないでいる人が惰性を許しているということです。

最近では、自分がおかしいという判断基準すら無くしている人が良識的でなければならないとされている領域でも群発している有様になってきています。その典型例がマスコミの記者でしょう。

万人を社会維持において正しい方向に導かなければならない使命を担っているはずの業界人が社会の不安を煽り、空気をネガティブ化し、無知蒙昧な市民を歪んだ啓蒙によって利己的な満足に押しやる姿は見苦しいばかりです。

週刊誌やテレビのワイドショーなどといった本来公器の使命と、それに応じた力を持つ報道媒体の無責任で反吐が出るような情報の垂れ流し状況はもはや犯罪に近い在りようです。彼らは本当に自覚があるのでしょうか。そういった権力を持った連中が総じて高学歴であるという所に教育の歪みが顕著に露呈していると思うわけです。

何故ならば人の心を形成する3つの基幹要素である知と情と意はそれぞれが三位一体で社会構成的に全体を形成している存在ですが、その中の知という要素が要素還元的存在に偏り他の要素と噛み合わなくなっていることから生じる心のアンバランスが今の社会的な弊害の殆どを占めているからです。特に意という要素はそれ自体が社会構成的な要素です。

知を幾ら組み合わせても意になることはありません。意と知の違いすら分からなくなった若者が増えてきています。ましてそういった人材が経営者やリーダー的立場にあって他者に影響力を与えているとすると背筋が寒くなる思いです。面白いことに自ら意がないから意が何かが分からない、よって知を高めれば意になるといったような頓珍漢(トンチンカン)な思考プロセスに陥ると云ったスパイラルになっているようです。

これで有名大学を出たというのですから、大学も一体何を教えているのでしょうか。要素還元思考は高校までの世界です。大学本来の役割は学習した様々な要素を社会構成的に有機的に組み立てるプロセスを教える楽譜の筈なのですが、どうやら今のマスコミ人材のあり様などは大学の姿勢にも大きな問題があるように思えます。

~意の3つの視点~

ところで社会構成的な存在である意の世界ですが、意には3つの視点があるのはご存じでしょうか。一つは人間性という世界です。品格とかポジネガとかいった人として社会的に存在していくための素養のレベルの意思の在り方です。

最近東大の医学部で司法試験にも受かったという知には突出した人材が女性に対して人として人後にも落ちる下品な振る舞いをした事例が取り沙汰されていましたが、これこそまさに知と意が異なるということの証のような話でした。社会的な存在としての人としての基軸となる考え方、道徳性とも云える領域が人間性です。

最近のSNSによる人格攻撃など、この人間性が野生になっている人材が増えてきているのは本当に寒々としますが、これこそ教育の責任、文科省の罪は大きいと思います。官僚自体が経年の中で知的偏重の採用となり、意性が忘却されている悪循環による産物と云って過言ではないでしょう。古くからこういった領域に貢献していた宗教者の方々が文科省と同じ様相になっているのも悲しい限りです。

やはり人間社会は末期に入っているのでしょうか。何か胃につかえるモノを感じます。

二つ目は思想性です。これは観念性とも表されます。何を好み、どういう志向性を持っているかという面での意と云えます。これは人それぞれですから良し悪しはありません。しかし社会を維持発展させて行くには、やはりそれに応じた志向性の保有が望まれます。特に認知といわれる人の判断領域はこの意が軸となって発せられますから、自分がどういう意の持ち主であるかを理解しておくことは重要です。

またこの志向の在り方は上下左右と八方に開かれているだけでなく外延的内包的といった方向もあります。当然上向きの思想や外延的な思想は他者との関わりの中で相乗的な働きをします。そういった意味で個々においては自由な領域ではあっても、モノによっては社会的に生産的か非生産的か分かれる場合もある領域です。結構取扱注意の意です。

レジリエンスは認知に関わる面が大きいので、この領域の意の影響をしっかりと理解しておく必要があります。

3つ目は活性です。この領域はこれまでの2つの意と違って知との繋がりよりも情との繋がりが太い性質を持った意の領域です。覇気とか気概といったエネルギー的な力を司る意です。私はポテンシャルという言葉で良くこの意を表しますが、どんなに人間性が良くて思想的に好感が高くても、この活力としてのポテンシャルが低い人は直ぐにエネルギーが枯渇してしまいます。

そもそも影響としての波動が外へも内へも弱くて自己統制も出来ませんから安心できず信頼もできません。因みにレジリエンスとはそもそもこの領域の意に対する存在概念です。最近はこの活性が弱々しい人が続出していることが気に掛かるところです。

ウツの蔓延もこの活性への取り組みが乏しいことが大きく起因しているのではないでしょうか。マインドフルネスはこの活性を制御するアプローチです。しかしマインドフルネスはあくまでも安定させる取り組みであってポテンシャルを高める取り組みではありません。ポテンシャルを高めるには、思想性の在り方を確固たる状態にする取り組みやヨーガなどで活性を引っ張り上げる取り組みが必須になります。

さて皆さんは「ソモサン?」。

 

       JoyBizLIFTという概念で意を開発するアプローチを探求しています。是非ホームページの当該ページ(LIFTとは)をご参照ください。また弊社の営業にお問い合わせ頂けますと幸いに存じます。