• 意と知の違いをきちんと認識して未来を前向きに切り拓ける人材を生み出しましょう

意と知の違いをきちんと認識して未来を前向きに切り拓ける人材を生み出しましょう

~改めて意の本質を問う~

私は現代の社会人に最も求められるモノは知の力よりも意の力であると喧伝していますが、知に凝り固まった現代人と話をしますと、どうしても意よりも知の方が重要ではないかという主張にぶつかることがあります。これこそがまさに意に関わる問題なのですが、今回はその辺りについて言及をしてみたいと思います。

意とは換言すると観念のことです。意を意思と捉える人もいらっしゃるようですが、厳密にはそれでは一面しか表していません。意は知との間で意思を作り出しますが、情との間で意気も生み出すからです。

意よりも知を重視する人の主張は概ね「知が意を構築する」という観念から来ているようです。意思という領域に表されるように、確かに表面を一見する限りでは意は知によって作り上げられる存在のように写ります。知のない人の意は非常に浅く、また偏っているのは確かです。意は幼少からの知の集積によって豊かなモノに醸成されるのも間違いのないところです。

しかしながら素養としての意は知によって形成されますが、それはせいぜい10代の前半までの話です。第二次成長期を通して自我に目覚めて以後は、その段階までに構築された意によって知が操られていくのが、それからの人生における意と知の関係と云えます。

意とは理非分別といった判断基準であり、物事を思考する際の入り口と出口を司る門番的な観念です。例えば物事の何処に着眼するかとか何に興味関心を示すかといったところとか、これからの思考の方向付けをどのような過程にするか、知としてどういった情報を得ようとするか或いは取捨選択するかといった具合で、前提となる知への働きかけを制御する位置づけの存在となります。また様々な思考の末結局はどうするか、どう結論づけるかというところを支配するのも意の働きになります。

世に知的に優れた人は沢山いますが、その人たちの知の嗜好性やその知の高め方、使い方を支配するのは全て意の働きかけです。

また意は感覚や知覚を判断したり解釈したりする「認知」という仕事も担っています。人は認知によって知を前向きにも後ろ向きにも受け取りますし、認知の背景にある固有の意図によって事象を好きなように解釈します。そして認知は自動思考という作用によって無意識的にも発動されます。

更に意は情に影響し、行動の在り方を高揚させたりも消沈させたりもします。つまり情の在り方も意によって上下左右に制御されるのです。意気に感じるとか気に入るといった世界は全て意が情に作用した結果発露される反応です。

 

~人の態度や姿勢は意によって決まる~

「格」という言葉があります。英語で云えばランクです。日本では格は特に「品位」を指します。上品とか下品という世界です。こういった格はまさに意が表現される場面です。意は知や情を制御していますから、上品な意の人は知的にも情的にもそれに見合った露出がされます。

意によって統制された上品な情の世界は芸術のような感覚(センス)の面に反映されますし、無統制で粗野な下品な情の世界は情動のような情緒面に反映されます。知的に優れているからといって意が劣っていて下品な人は幾多といます。高学歴でも欲情が押さえられずに犯罪に手を伸ばす人や、論理的世界の権威でも自己抑制が出来ずに社会に迷惑を与える人は枚挙に暇がありません。

最近高齢者でもこういった人が頻出し始めました。それよりも高学歴者の方が下品さを問われる振る舞いを何の問題意識もなく行い、その蛮行で社会を揺るがす自体が増えてきています。

昨今のマスコミなども就職的には高学歴者が優遇されるにも関わらず、その行為は下品この上なくまた内観能力にも欠け、厚顔に社会の秩序を乱していることすら頭が行かないお粗末な人材で占められ始めています。

どうしてこうなってしまうのでしょうか。ここに私は強い社会的な危機意識を感じます。社会の中に信頼感が欠如し始め、集団凝集力が弱くなり、徐々に相互に牽制機能が働かなくなり、相互無関心が蔓延し、空気がネガティブ基調に犯され始める。挙げ句の果てが亡国的になり、いざ困っても誰も助けてくれない孤立社会への道を邁進する日本の風潮への危惧を強く感じるわけです。

我が社にもこういった風潮に毒された人材が会社を引っかき回して辞めていきましたが、最近徐々にそういった人材が増えてきている感があります。

私的にはこの根本原因は、戦後日本が、古来より誇りとして持っていた意の必要以上の自己否定による崩壊が招いた社会的な思想漂流が、個々における哲学観や社会的な目的感の喪失を生みだし、それが人間性阻害の利己主義と富に偏重した社会観、刹那的な行動といった下品で動物的な世界を創出してしまったことにあるとみています。

そしてそれが代を重ねるにつれて加速化し、利己のための知の錬成はすれども意は幼児のままといった大人の排出とそういった輩が支配する歪んだ社会秩序の蔓延を引き起こし、そうして殺伐とした状態を加速化させていると懸念しているわけです。

「東大までの人、東大だけの人、東大からの人」という風刺がありますが、まさに受験目的しかなく、入学後目的なく潰れる人(ヒポクラテスたちという映画で伊藤蘭さんがこういった学生を好演してました)、東大卒業後その名前だけでプライドだけが先行し、結果孤立して泣かず飛ばずになる人、そして最高学府での出会いや知識をふんだんに活かして社会に影響する人という構図の中、前者の人材が徐々に増えているのがビジネス社会の人間としては心配されるところです。

知はあっても意がない。頭は切れるが哲学がない。処理的思考は出来ても創造的思考は出来ないといったAIの様な人材。また自分の感情がコントロール出来なくて直ぐに切れるアダルトチルドレンや発達障害のように、人の気持ちが読めずに人と協同が出来ない、人をマネジメント出来ないといった輩が社会や組織を大きく阻害し始めています。

ところが世の流れとともにその根本原因すら理解できない世代となり、歪んだ知の上塗りをするが如く知の強化に邁進したり、意よりも知と宣う若手の経営者が出てくる昨今をみる限り、もはや末期症状の感を拭い切れなくなってきています。SNSやネットの発言などに見られる愚の世界はまさに氷山の一角です。

願わくば、間に合う内に意の教育を真剣に取り上げて欲しいものです。昔は宗教がそういった面で八面六臂の活躍をしていましたが、今や宗教自体が怪しくなり腑抜けになって、所によっては葬式仏教などと下品化している有り様です。そのため宗教に対する信頼も落ちていく一方です。

JoyBizも孤軍奮闘していますが、如何せんこの世の風潮という潮の流れはかなりの激流です。一人でもこういった社会の本質的な問題に目を向けて櫓の漕ぎ手に力を加勢していただけると幸いに思うところです。

思考の入り口と出口は意です。考える過程において必要となる知を幾ら磨いても肝心なポイントが意味を為さなければその思考はノイズに過ぎません。皆も思考が有意なシグナルとなるように優秀な方々を導いてください。むろん皆様自身が意のある人材でなければ、この話は「暖簾に腕押し」ですが。

さて皆さんは「ソモサン?」。