プライドを通して人としての生き方や在り方を考える

~プライドが高いという事の意味~

皆さん、こんにちは。「プライドが高い」という言葉があります。プライドとは一体何でしょう。和訳すると自尊心という言葉が当て填められていますが、一般的に使われる意味は寧ろ虚栄心とか自惚れといった方がそれに近いように思えます。プライドは自分を盛り立ててくれる力の源泉にもなりますが、多くの場合は自尊心の低さという実存の裏返しとして発せられるやっかいな意思の一つです。

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という格言があります。確かに自尊心が実存として高い人は常に心が安定していて、他人に対して常に対等的です。寧ろ相手を立てて低姿勢に振る舞う人の方が多いようです。

論理は解釈というフィルターを通して相手に伝わります。つまり伝達の間に相手側の自律した意思が反映されますが、感情はその起伏がそのまま派動的に伝播します。そこには相手側の自律性は存在しません。従って論理による疎通は一定の生産性を醸し出しますが、感情による疎通はマイナスを生み出す場合が多々あります。

また人の進化は集団活動によってもたらされ、その手段として疎通行動が為されますが、その直接度は心理の発達過程に応じて、準じ、行動レベル、感情レベル、論理レベルと形成されます。従って人は論理よりも感情、感情よりも行動に影響されることが分かっています。

その為人は疎通の際、話している内容よりも話し方や口の利き方、そしてその時の態度により強く反応することも分かっています。皆さんの中にも「あの人の言っていることは理解できるけれども、あの人とだけは組みたくない」といった経験をしたことがあると思います。

こういった話し方や態度と言った面は、必ずしもあからさまにネガティブなばかりとは限りません。最近では慇懃で無感情的な人が増えてきているのも気に掛かるところです。

何れにせよ、ネガティブな感情はあっという間に周りに伝播してそこの空気をネガティブに変えてしまいます。そして疎通の在り方もマイナスに貶めてしまい、非生産的な状況を生みだしてしまいます。こういったネガティブな感情を生み出す源泉が低い自尊心への自己認知です。

実はこの低自尊心とプライドの高さとは表裏一体の関係にあるのです。プライドの在り方には自己認知としての基準が大きく作用します。基準とは人と比べての優劣です。かつて心理学者のマズローが人の欲求段階に関する学説の中で、社会的欲求としての自我地位に言及していますが、人が群れるという反応の中核に群の上位に立とうとする反応を有している限り、自尊の源泉として人から優劣反応を外すことは出来ません。

問題はその優劣をどう自己認知しているか、です。優劣には様々なパターンがあります。頭の良し悪しもあれば、体力の強弱もあります。モテるモテないもありますし、金持ちか貧乏かもあります。ある人にとって満たされていることがある人からすれば欠けているとして囚われていることもあります。基準は人によって様々です。

これが社会生活を送る中で、大勢の平均から偏った自己認知になっている場合に様々な歪みの反応行動が起きてくるわけです。自己認知には瞬間的なモノもあれば、原体験的に根深く心に染み着いたモノもあります。それに応じて直ぐに修正できる歪みもあれば中々修正できない歪みもあります。

歪みがあれば、周りは大して気にならない在るべき状態が、気になって仕方がなくなります。自分は満たされていないという焦燥感に苛まれる人も出てきます。そういった意思の在り方から劣位な感情が生み出され、ネガティブな思考や防衛的な行動が生み出されます。常に自分を低く見積もることしか出来なくなり、自信が持てず、自尊心が持続的に低位な状態となります。

普通はこういった場合、卑屈になったり斜に構えたり、弱々しい態度を取ったりとあからさまな姿が見え隠れするのですが、結構多いのが自分の劣位意識を悟られないように振る舞う防衛行動です。一見普通のように見えるのですが、実際は自分を偽装していますから心理は非常に不安定です。常にピリピリと腫れ物のようで、実際直ぐに感情的に反射行動をとります。

ところがそういったアンバランスさを自ら自認していますから、日常は過剰なくらいにそういう自分を見せないように振る舞います。本来の自分を見せたくないわけですから、極端な位に反対の姿を見せようとします。これが虚栄心です。また大したことでもないのに自分を納得させようと自我礼賛しようとします。これが自惚れです。共に自尊心が低いことへの自己正当化反応なわけです。

これこそが「プライドが高い」の実像と云えます。要は「プライドが高い」の実像は「自尊心が低い」の裏返しということです。

 

プライドが高いと云われる人の共通特徴は、常に自分を優位に見て貰おうと気を回します。人によっては露骨に人を睥睨することからそれを表現します。面白いのは本当に自分の中で劣位な自尊心の領域を隠そうと別の自尊心でそれを補おうとする行為です。一見すると自尊心が高いように見えますが、実は本心を隠していますから、そこに触れる状態になると一挙に我を忘れます。

そしてちょっとしたことでも過剰に反応したり、防衛行動の中では最も原始的と云われる攻撃という反応をしたり、冷静である論理が吹っ飛んでネガティブな感情を露呈させます。

また、そういった自尊心の低さがバレないように日々の行動を選択しますから、見た目結構立ち回りが上手い人も多く、本心では自分が責任を担わないようにとか、人から嫌われないようにとか、仲間外れにされないようにとかを目指しているのに、如何にも自分は調整役であるとか、自分が仲を取り持っているとか、自分は対人関係上手と振る舞います。よく見ていると単にへらへらと人の間を泳いでいるだけで責任感なく、腹が括れません。

ところがこういう人に限って追い詰まったり、自責を問われたり、人からネガティブに或いは軽く見られていると自認されるような扱いを受けたりすると、いきなり感情的になるわけです。人は対処できないと感情的になります。脳が幼児化するわけです。そういう観点から見るとプライドの高い人とは、幼児性が高いと言い換えることも出来るでしょう。

~必要なのは五感的な暗黙知の習得~

さてでは皆さんの周りにいるプライドの高い方、とはどういう人達でしょうか。最も顕著なのがパワーエリートと言われる一群です。この人達は確かに頭の回転といった面では優れています。しかし社会性や人間性といった局面では如何でしょうか。

私の会社にも日本の元ナンバー高校だった旧帝大をでた人間がいますが、彼は常々「今の高学歴を得るには狭かろうがどうだろうが、受験用の思考力を高め、受験用の情報を高めなければならない。

それには一般教養とか雑学とか云われる知識や思考を身に付ける余裕が取れないのが本当の所です」と過去を述懐しています。確かに受験では無用のような知識は結構抜けている様にも思えます。

私など高校の時は哲学書や宗教書などを読みふけっていましたが、それでも一定の受験勉強をする時間は取れていたように思えます。まあ旧帝大は落ちましたが。彼などはそういうこともあり、教養を身に付けるべく意識的に努力しているようですが、そのまま官庁などに属した人達の教養は如何な状態なのでしょうか。

私的にはそういう人達と触れる度に感じるのは人間という生身な存在に対する情報、特に感情という外せない人の要素に関する情報の不足です。幼少期から触れ合いが不足し、触れ合いの経験が乏しく、またその尊さやそれを重視するという教育が為されず、結果成人しても人が分からず、故に更に人という存在を避け、人音痴が加速していく。

それが相互に化学反応を起こす社会情勢。これが今の虐めやSNSの人格攻撃に反映されているのは間違いのないところです。また医者や科学者のような理系人間における人間音痴の増殖が今や文系人材にも蔓延し始めている現実があります。

私はこういった人の中でも最も注視しているのが、「知的暴走」の蔓延です。知的暴走とはヘッドトリップのワープ現象とも云うもので、保有する狭い知見で論理を推し進め、虚論を展開することです。

困ったことにこういった思考をする人は、経験的な暗黙知情報、特に五感的情報が少なく、失敗の経験が少ない為に理知分別力も低くて、一方でインターネットなどの発達により文字情報には埋もれていて、そして二次情報をあたかも一次情報のごとく捉えて論を展開します。

こういった人は本能的なのか、何故か自分の欠落を内知していて、それが「自分は賢い」「自分は正しい」といった想念に埋没してプライド的に自己に拘りを発生させます。そして新しい情報を拒絶して持論を押しつけ始めるわけです。

だいたいそういう兆候が出始めると、人は無意識的に「上から目線」の見方、言い方が出てきます。「してやっている」とか「してやろう」といった具合です。相手の人格否定をしている自分に気が付きません。何故ならば人の気持ちが分からないからです。人の気持ちを体感的に察するのはなく、理屈として分かったふりのレベルでしか認知できていないからです。

これを知るには「対人間でのフィードバックの経験」や「対人間での感情的失敗の経験」といった五感的な暗黙知の習得が必須になります。それも庇護のない中、裸で学び取るしかない世界です。パワーエリートや今時の甘やかされた若者にはこの経験が欠落しているわけです。

何でもストレスを否定する状況でこの感性は生み出されません。PTSD(外傷後ストレス障害)を越えたところにPTG(外傷後成長)があるという研究がありますが、そのような特殊な経験を除いても、人はストレスを経て心理的に鍛錬され成長するというのは自明の話です。ところが現代はこの成長のためのストレスすらも否定し始めている状況となっています。

これこそ未成熟なパワーエリートが生み出した知的暴走の一つの現象ではないでしょうか。パワーエリートは官僚とは限りません。マスゴミといわれるマスメディアの記者も今や社会の木鐸と云うよりも学識未経験者の知的暴走の先兵となったという感があります。

更に安定な時代が生み出した二世の台頭です。彼らこそ学識未経験者による知的暴走の筆頭が雁首揃えているといった状況です。

今こそ日本社会はプライドの本当の意味を考えて、人が生きる意味やその生き様としての社会の在り方を自他共に問うてみる時機に差し掛かっているように思う今日この頃です。

 

さて皆さんは「ソモサン?」。