集団としてポジティブな世界を作り出す必要性を考える

~日本人の志向はそもそもネガティブ志向~

前回はポジティブという心理状態と知情意という心理要素との関係を通して、知を中核とする思考の在り方を左右する情、即ち気持ちのコントロールの重要性について解き明かし、同時にそれを可能にするマインドフルネスという技法を紹介させていただきました。その流れから、今注目を集めているレジリエンスという力についても触れさせていただきました。

※前回の記事「ポジティブ世界を生み出すマインドフルネスの作用

さてレジリエンスの根幹であるプラス思考や楽観という状態を生み出すポジティブという心理ですが、これは一体どのような意思から湧き上がってくるのでしょうか。

人間のポジティブ的な指向性は生理学的にはセロトニンという物質が大きく作用しているということが解明されています。また日本人はそのセロトニンを満たそうとする能力が遺伝子的に弱く、世界の中でもネガティブに陥りやすい民族であるということも分かってきています。このことは日本人が分析を好む特性にも寄与しています。

分析とは、批判的な思考による不安解消に導かれた思考に支えられた行動だからです。また元々生きるために社会的な行動を学習することから進化してきた人間にとって集団行動は本能的な選択行動となりますが、その行動を押し進めている心理状態が不安解消という防衛反応であり、それによって日本人の取る特異ともいえる団体行動も推察できるといえます。

こうして考えてみると、日本人は農耕民族になったことで団体行動を強めたと云うよりも、団体行動を指向する民族だったからこそ安定的に食を確保し、かつそれを分け合える農耕型生活を選択したといえるかも知れません。だからこそ一挙に普及していったのでしょう。

いずれにしても日本人は他の民族に比べると不安になりやすい、つまりプレッシャーやストレスに弱く、生来団体に従属しそこに埋没することで身の安全を持ちたがる習性が強いと云うことは確かな様です。

このことは日本人がレジリエンスを開発したりポジティブ思考を高めたりしようとする場合、非常に大きな影響を与えます。このことは人間が何によってネガティブに陥るかの要因においても重要な意味を持ちます。端的に言いますと、日本人の場合個人的な内観事由よりも団体の中における自分の在り方が諸外国の人よりも心理に大きく影響を及ぼすということです。

果たして外国の人の殆どは周りがどうあろうが、自分で自分を規定して唯我独尊を基調として活動します。誰に云われようが自分は自分でなかなか自分の過ちも認めようとしません。一方日本人は周りが最優先で滅私奉公を尊んだり、自分が悪いわけでもないのに配慮とか忖度といって融和のために自分を殺したりしてしまいます。

そのため本来は楽観が基調の人間存在に対して、日本人は悲観が基調という極めて珍しい人間特性を有する存在になっているわけです。ともすれば自我すらも形成されていない人が一杯存在する民族なわけです。

これはその民族だけでの閉鎖社会の内輪の論理においては安定が維持されますが、解放社会における多様性がマジョリティになってくると何かと物議を醸し出し始めます。何よりも異種民族との文化間の共生においてはかなり損な状態を生み出します。相手が主張を前提としているのに、こちらは端から譲歩が前提では大変なことになります。少なくとも相手から見て交渉的にこれほど扱いやすい存在はありません。

ところが分かってはいてもなかなか修正できないのが観念や指向性です。特に集団思考による文化は集団の相互作用で構築され、歴史の中で醸成されていますからやっかいです。少数の人がそれを是正するような行動を取った場合、多くは集団の自浄作用に会って阻害されます。迫害に合う場合もあります。

また、自分たちの立ち位置が何処なのか自体が認識できていない場合が殆どですから是正のしようもありません。こうして個は集団の圧力の中に没していき、無個性なそして夢も目的もやる気も持てない人間が排出され続けます。まさに集団が第一義で、個人はそれに従属する文化や価値観といった世界で、自我をどう捉えればいいのでしょうか。

このような中で、より大きな開放的社会の価値観においては問題のない自我の人が閉鎖社会の中で自分を見失い、自責に駆られてうつや双極性障害に陥ってしまうといったケースが頻発し始めています。自分は正しいのに集団圧力で心理を歪められてしまうわけです。こういった場合、如何にしてそこから脱却したり、ポジティブに思考を改善したり、或いはレジリエンスを高めれば良いのでしょうか。

~関係性の中にこそ問題解決の鍵がある~

ここに個人における心理的軌道修正の限界が露呈してきます。個人技による改善は個人が基調の社会においては有効です。つまり欧米においては個人の基軸がしっかりしている中で様々なアプローチが研鑽され錬磨されて有効化されてきました。一方日本は、基軸はそこにありません。集団の中での自己です。ということは先ずは集団や関係をどうするかが問題解消の大きな軸足となります。

そしてその集団と自分との関係をどの様に良好にするかという所に足掛かりが存在すると云うことになります。それなくして幾ら自分を内観しても、あるいは自分の意識改善を行っても現実的には無意味になってしまいます。

集団的問題や関係的問題は関係の中に根本原因があります。つまり、一方が何とかしようとしても当事者であるが故にどうしようもできないということが発生します。双方が或いは集団全体が関係を良好化する動きを取らなければなりません。従って“間”を改善するアプローチが必須となります。

正しい人が病んでおかしい人が闊歩するというような状況も良く見かけます。企業などの上司部下といった主従関係や差別意識が罷り通る中での弱者問題がそれです。特に日本では閉鎖社会や民族的な低自尊感情から差別や優劣意識が無意識的に横行する社会です。この場合、正しいのにそれを追い詰めることは人として悪であるという意識を関わる人全てが持たなければ何の問題解消も生じないわけです。

ところがそういうことへのファシリテーションは日本では殆ど為されません。日本での人に対するプロフェッショナルは人間音痴とまでは云いませんが、心理を実践的および経験的に積み重ねている人が圧倒的に少ないのが現状です。

医者のような人ですらが、個人という存在に関しての研究に秀でている人ばかりで、集団や関係の問題を解消したり改善したりできる人はごく僅かです。人体のプロであっても人間のアマチュアが人を語り、それが権威づけられているのが現状です。これは西洋かぶれの最たる結果といえます。

ともあれ集団的な問題や関係的な問題を解決するのに、個人を対象としたマインドフルネスとか認知修正のアプローチが的外れなことだけは間違いありません。そこに自尊心の向上や自滋心の啓発を訴えたところで詮無いだけです。そこで必要なのはコミュニケーションの向上であり円滑化であり、そのためのファシリテーションであり、そして明らかに障害となっている関与者に対する相互バランスを取った改善アプローチです。

今の日本の人に対するアプローチは余りに偏りがあります。それは欧米に寄り過ぎた中で生まれた日本の独自性に応じた技法や考え方の啓発不足に起因します。集団主義社会であること、論理的分析思考に拘泥し、頭でっかちで心のたおやかさを軽視する価値基準が横行していること。

何せ行動的には世界でも特異な先進国でありながらもアニミズムを崇拝する国家でありつつ、学識者は極端にスピリチュアティを否定するという矛盾を抱える国民意識ですから。

何れにしても日本において真剣に心理的な面での問題解決や発展を期するのであれば、集団レベルでのアプローチに対してもっと真摯に目を向ける必要があります。また技能的にも経験的にも関係的問題解決をファシリテートする能力を啓発していく必要が大と云えます。

そういった意味においては欧米的なコミュニケーション力や対人に対する姿勢は学びとなります。向こうはジャスティス対しては家族でも妥協をしません。正義という西洋と中庸という日本。両者の良いところを身に付けてそれを有効に使いこなせてこそ、本当のグローバリゼーションに日本も参画できると私は考えています。

今JoyBizではポジティブ心理学を適応した組織開発、集団の活性化に鋭意取り組み始めています。私はそういった力をモメンタムと称しています。厳密に云えば集団においてレジリエンス、復元力は生じ得ません。集団で生じるのはモメンタム、勢力であり活力です。

モメンタムとレジリエンスを合わせた力をフォース(向きのある力)と云います。それを生みだし高めるアプローチがポジティブ組織開発であり、JoyBizではLIFTというプログラムにそのための技法を収斂させました。是非ホームページをご覧ください。(詳細は「LIFTとは」をご覧ください)

 

さて皆さんは「ソモサン?」。