令和に佇み自らを内観する。人の人生を担う責任を考える

~常識的行動の第一歩は知ることから~

この10日間を皆さんは如何お過ごしだったでしょうか。私は新たなプログラム開発に向けて資料漁りに明け暮れておりました。

といって部屋に籠もりばかりでは体重が増えるだけで前期高齢者病になってしまいますので、旧友がきゅうり農家を始めるというので表敬訪問に行った次第です。

で役だったのか?ということですが、お手伝いくらいと思ったのですが、最初の一穴の段階で全く使い物にならず、殆どは30代の若手の後輩が引き受けてくれたのが実際で、私は後の飲み会で大いに役立つ働きをし、病持ちへの王道をひた走るばかりでした。ということで今回はその際に感じた所を主題に話を展開することに致します。

 

この半年間、週に2回、平均で5キロ程をジョギングする日々で結構体力には気を使っていました。きゅうり畑で後輩がぐいぐい畦に穴を開けている姿につられて自分も同様に取り掛かろうとしたのですが、何と機器が全く土に食い込んでいかないという衝撃に出くわしたのです。姿勢が悪いのかとも思いましたが、後輩を見ている限りそれは抗弁となりません。自分の体力の衰えに愕然とする思いでした。

私は常々気づきの導入として体感という経験的な暗黙知の重要性を訴えていますが、これこそがまさにその“あ!”という体感の瞬間でした。ともあれそれまで頭の中でイメージしていた状況と現実の乖離は大げさではなく衝撃というコトバがピッタリだったのです。改めて体感による経験知としての情報が思考に与える影響の大きさに打ちのめされる思いでした。知るという言葉の奥深さを久しぶりに内省させられる一時でした。

 

さて「寝た子を起こすな」という言葉があります。知らなくても良いことをわざわざ耳に入れて不要な波を立てるなということですが、果たして皆さんはそれをどう思われるでしょうか。

知らない限り何らの問題解決も出来ない、というのが実際だと私は思うのですが、日本人は良くこの論理を多用します。分からない限り何らの対応も出来ないのにというのが私の実感です。私は少年期を関西で過ごしましたが、関西で学んだ同和の世界は私の中で人として生きる上での一体性を体感的に身に付けてくれました。

平等ではなく一体です。経験的に云う限り、平等は理屈の世界です。人と人は触れ合いの中で平等ではなく一体を得、それを持って様々な違いをそれこそ理解ではなく腹落ちさせるのだということを私は経験的に体得しています。

そういった実体験を通して、私は「人はまず何よりも知らなければならない。その上でその知った情報から深く思慮し、そして判断しなければならない。それこそが人が人である証だ」という信念を手にしました。

そういった中で自分にとって正しいと思える判断をするには、制約された情報系の中ではかなりの困難を伴います。それは情報の取捨選択がこなれていないからです。

逆に日々を安寧に生きようと思えば、取捨選択をしなくても良い情報系の中に身を委ねることです。つまり誰かが意図的に操作した情報系の中で安住し、その範囲の中で判断をしながら生活することです。

例えば日本特有で固定的な情報系が生み出す学歴社会などは分かり易い一例です。学歴社会は開放的な情報系の中での優秀者ではありません。一定の閉鎖された情報系の中での優秀者です。重要なのはこういった情報系を牛耳る存在が自分に疑問も持たず跳梁跋扈する有り様です。

日本のエリートといわれる存在は、操作された情報系の中での優秀者であり、その情報系の中での解析能力には秀でていても新たなる情報系を創造する能力には疑問ある存在です。またその多くはそれに疑問を持つ能力すら啓発されておらず、ただ演繹的に国や組織を引率している現実です。

しかしそれ以上に問題なのは、先にも触れましたがそういった輩が体感的な経験を持たず、頭の中の論理だけの思考で事態を先導する行為であり、それがマジョリティー的に容認される風潮が存在するという国情があるという現実です。

一方でグローバル的には事態は多様性の度合いを深めるばかりです。しかし日本を先導するのは相変わらずステロタイプに拘泥する日本の風潮と、その風潮から増産される独特の学歴ばかりの現場未経験者のエリート陣の排出です。

彼らは悲しいかな自分の有り様に疑問も持っていません。全ては、自分は勝ち残りであり、自分への疑問など微塵も持っていません。そこに関しては思考不全となり、完全に風潮の虜です。そこに論理はありません。

例えその風潮が創造人材を潰す社会風潮であったとしてもそこに意識が向かないのが思考への自惚れなのです。それを打破するのは体感的な経験学習です。

ところが今の企業の担当者は自らが先の轍に引っかかった人材なのか、本質を考えようとも内観しようともせず、口のするのは目先の技能向上ばかりです。そして体感的な経験学習による意の開発を軽んじる風潮は依然改善されません。結果殆どの組織は改革とは口先だけで隘路に陥っているのが現状といえます。

はてさてこういった人の柱である意を軽視し、静態でしかない知やその延長的な力の開発にしか頭が向かない人事担当者達が采配する国や組織において何時になったら実体改革は為されるのでしょうか。

知るという情報系への多様な接触の場を狭める日本独特の風潮は、徐々に若者の行動をマイナスに導き始めています。常識や素養という情報を知らされずに成人した若者のSNS投稿などはその典型です。彼らは自分が何をやっているのかが分かっていません。

分かってやっているのであれば悪意ですが、逮捕後の彼らの述懐を聞く限り、彼らは自分の行動の理非分別が始めから付いていないことが見えてきます。また時にはその行動は自らの生命を奪う行為に繋がる場合もあります。

例えば酒に酔って川や海に飛び込みいのちを無くす悲しい事件が昨今非常に増えてきています。道頓堀川の乱行などは後を絶ちません。こういった出来事こそまさに知る、特に体感的に危機を経験せずに育ってきた昨今の若者の軽薄な所業といえます。

~責任が伴ってこその民主主義である~

さて、こういった風潮の真っ直中で最も私が危惧するのが、浅はかな民主主義的行動のうねりによる社会の歪みです。民主主義の良さは万人の平等性に根ざす自由の保障です。しかしこれはあくまでも万人が相互に相手を敬うと同時に、相手の自由を保障する意識において成立するものです。

少数でも利己的な自由が横行すれば成り立ちません。まして他者を貶めて自己の溜飲を下げるような輩の横暴が入り込むような場では民主主義は却って破壊的な状況を招き出します。従って民主主義が正しく機能するには参加する人々の高い見識が必須になってきます。そういった意味で直接民主制は非常にリスキーなやり方といえます。

卑屈さや劣等感による歪んだエネルギーに基づいた弱者の横暴が大勢となるような場合大変な事態が生じます。最近それがグローバルで大問題を引き起こし始めています。アメリカの大統領選やイギリスのEU離脱などです。この背景には一票の持つ重さに対する認識への無知の横行です。自分の行動が何を生み出すかが分からなくなった軽薄人が徒党を組んだ場合の歪みです。

日本の場合、その愚を避けるためにこれまでは間接民主制によって専門家による民主主義を行ってきました。しかしこれも怪しくなってきています。一部の二世などによる素人政治が起き始めています。

それよりも私が注視するのはSNSといったインターネットの発達による疑似直接民主制のようなうねりです。無知でも軽薄でもその声が直接大衆に届くようなったわけです。確かに為政者による情報統制や情報操作は民衆の平等的な自由においては最悪の振る舞いといえます。本来人は完全に自由な条件下でお互いに情報を交流させられるのが民主主義のあるべき姿です。

しかしそれはあくまでも成熟した自己責任を担える人によって為されない限り破壊行動に繋がるということは先に述べた通りです。ところがSNSは人の成熟性が劣化してきているのと反比例するようにどんどん発達してきています。この乖離が今、日本人の心や文化に大きな歪みを生み出し始めているように私は感じています。アメリカの政治の歪みもイギリスのそれも、陰にはSNSを使った未熟者による情報交流の歪みと暴走があると思うのは私だけでしょうか。

最早SNSを制御するのは不可能です。まさに第三の波です。そういった中でリアルな社会を健全に舵取るには、何よりも知るというキーワードを真摯に捉えて、人の意をせめて社会人としての素養保持のレベルにまで啓発するような取り組みを国も組織も最優先に手掛けることだと思う今日この頃の私です。

さて皆さんは「ソモサン?」。