「社会構成主義と実務家のあるべき姿を考える」

皆さん、こんにちは。

~関係性の中から物事を見る重要性~

社会構成主義という思想があります。社会構築主義という方達もいますが、人間関係が現実を作るという考え方です。人間の実存的な論理は個々の想念の中で生まれるのではなく、人同士の対話の中で言語的論理として生み出されるという考えです。これはデカルトが云ったとされる「我思う、故に我あり」の命題に対峙する主張と云えます。

 

社会構成主義の考え方は、応用的に今の科学の在り方に対して一定の命題を示してくれます。それは社会構成主義の中核が実存とは個ではなく「間」或いは「場」であるということにあります。それは全体は全体として実存を醸し出すという考え方です。ご存じの方もおられるでしょうが、今の科学の中核的主張は本質主義であり、それを導き出す要素還元主義です。全ての実存的全体は要素的に分解することが出来、それによって本質が究明される。また部分としての要素同士が結合することで全体が現出するという考え方です。

私は元々は理系でしたので、自然科学の研究において要素還元論が重要な役割を果たしていることは重々理解しているつもりです。真理を探究する活動は大切です。しかし実社会で現実を目の当たりにし問題解決をして行くには、要素還元論は大きく2つの弱点を晒けだすことになります。一つは真因となる要素に辿り着くまでに時間が掛かりすぎるということ。そしてもう一つが果たして分解した要素を組み立てたとして有機的な全体が現出できるかということです。

ここに学者の使命と実践者の使命の違いがあります。私は実践者の役割として必要以上の学者的論理を警戒します。ところがくそ真面目な日本人は儒教精神の刷り込みかどうかは定かではありませんが、必要以上の学者信奉、学問盲信によって思考的な隘路に陥っている感があります。その最たるものがMBA崇拝です。

 

もう30年も前になりますが、アメリカの自動車メーカー「クライスラー社」を建て直したアイアコッカ氏は前任であるフォード社を去る際、後任に「君はハーバードのMBA出身者だから一つ忠告しておく。物事は98%までは直ぐに分かっても後の2%を解明するために半年以上も掛かることがある。ところが君の学校では100%を極めろと教えている。大事なのは意思決定だ」と助言したと云われています。また西武グループの中興であった堤義明氏は「役員会で全体の40%が賛成した場合は時期尚早だが、70%が賛成したときは最早遅きに失するだ。もう皆が気付いているということだ」と仰っていました。

経営とは生身の魚で鮮度勝負が一番といえます。そういった状勢において一番厄介なのが、要素還元的な思考の枠組みに囚われた学歴主義者達です。知性とは要素還元的な分析力や論理力であると、おかしな刷り込みがされた高学歴者達が行動や判断の時機を逸しさせてしまうわけです。

しかしそれよりも私が危惧するのは、要素還元主義者における2番目の方の弱点です。それは要素の組み合わせで有機的な全体は生み出せるかということです。現在社会構成主義的な概念による思考としてシステム思考という考え方が勃興してきています。そこでは例えば生態学的に森を伐採して裸の山にしたことから起きた洪水問題に対処するために急ぎ植樹した杉によって起きた新たなる花粉公害について言及しています。そして垂直型論理思考や分析思考の弊害についての批判を行っています。
また創造思考やアブダクション思考も分析論や要素還元論による考え方からは生み出せないことが分かっています。そして要素還元主義の最たる弊害と思われるのが意の形成、思想観や哲学観といった観念の形成不足です。人が意思疎通をしたり、何らかの判断をするにおいて自分という意志が基点になるのは常識です。その意志を育みかつ常に下支えするのが自己概念に絡む思想観や哲学観です。

 

~意があってこそ知が活きる~

自分の意志がなく自己判断が出来ず、他者や権威に依存的に生きる人や幾つになっても幸福感を得られない人、自分の意見を持てずに人の言いなりに動く人、あるいは人と生産的なコミュニケーションが取れない人や人をマネジメント出来ない人、そして常に自己卑下に陥って被害者意識で他者をネガティブにしか見られない人に共通するのは自分の考えがないということです。自分としての思想観や目標意識、哲学観、いわゆる意のない人です。今こういった人が年を若くするに連れて増えていっている様です。

私はこういう人と接するときに愕然とするのは、その学歴や知性の高さです。立派な大学を卒業し、立派な会社に在籍にしているのに、自分の意志がない。凄い職業免状を持っているのに歪んだ生き方やものの見方しかできない。そして自己弁護や自己正当化に固執しているといった姿です。ともかく自分中心でしか考えられず、自尊心が低く、常に受け身で、上手く行かないことを他責にしかできない。また上手く行かないことを避けることばかりに頭を使い、計算高く立ち回っている悲しい人達の群です。
地頭は良いのでしょうが、深く考えようとはしない。パッションが弱く自分自身を奮起させようとする情的エネルギーが乏しい、当然レジリエンスも低いといった輩を見るに付けその学歴との対比に唖然とするばかりです。これは一体どういうことでしょう。

ここに意の開発と知の開発の違い、引いては意と知の存在の違いが見て取れます。

 

知とは要素還元的に探求された情報群と云えます。一方意は自分という自己概念の柱を軸に形成された知識群です。読解力や計算力、分析力といった方法論によって系統的に身につけた一般的で無機的な情報群を幾ら多く持ってそれを様々に組み立てたとしても、それで意は生み出されません。意は要素還元からは作り出せないのです。

何故ならば意は最初に意としての全体が存在するからです。それは社会構成論のように場としての全体の中に個が存在するように、自分という自己概念が分析的な要素的本質ではなく全体本質が始めにあり、それを肉付けするように必要要素がまとわりつきながら徐々に年輪のように形成されていくのが意という存在といえます。ちょうどクリスマスツリーのように最初に樅の木があってそれに飾りを盛り立てるような世界です。飾りは樅の木やクリスマスという条件が無ければ単なる綿やゴミになってしまいます。樅の木も単なる木です。全体意味論によって構築されるのが意という存在なわけです。

 

意が有っての知です。だから意の知(いのち)というのかどうかは分かりませんが、少なくとも知を幾ら身につけてもそこから意は生み出されないのは確かです。始めに意の苗が有ってそこに知が栄養素として注ぎ込まれてこそ意味があるのです。

世の中は全体と部分の関係から成り立っています。決して一方方向ではありません。今の教育は部分の合理性に拘泥し過ぎです。確かにファストラーン的には分析主義は分かり易く合理といえましょう。しかし世の中はスローラーンとしての全体論(ホーリズム)を持っていないと歪みが生じます。分析では分からないこと、仕切れない複雑性はごまんとあります。

学者が要素還元に拘るのは自分の業績評価がそこにあるからです。ドラッカーは社会構成の大家のような人です。だから一流大学の教授にはなれませんでした。彼はアメリカでの研究者的な評判は決して高くありません。仕方のないことだと思います。

学者の立場と実務家の立場は使命や役割が違います。いい加減学者コンプレックスから離れて、実務家として身になる動きをしませんか、と問いたい企業人が一杯いるのは寂しい限りです。

 

さて皆さんは「ソモサン?」。