• 「温東知西(日本や東洋の良さを温め、西洋の良さを学ぶ)を考える」

「温東知西(日本や東洋の良さを温め、西洋の良さを学ぶ)を考える」

皆さん、こんにちは。

<鵜呑みにしない>

私共は四半期に一回位の割合で大学の先生を招いて勉強会を実施しています。内容は主に会社の事業領域の中核である「組織開発」に関してです。こういった勉強会を重ねるに連れて何だか寂寥を感じるのは、経営学の理論やフレームの殆どが外国発であるということです。

先週も春の会を催したのですが、テーマは「U 理論に基づく組織開発」でした。U理論はアメリカのMITの先生であるオットー・シャーマーが提唱した概念です。日本でも2~3年前からちょっとしたブームになっています。しかしほんの少し見識を広げれば、日本人ならば「おや?」という疑問視が浮かび上がってくるのではないかと思う側面があります。

 

日本は鎌倉時代から隆盛となりましたが、平安時代より仏教に基づいた「禅」という概念が普及されています。U理論はこの禅における内観技法と殆どと言っていいほど一致する内容と云えるのです。U理論におけるダウンローディングの流れなど、まさに禅における瞑想に集中していく技法とそこから見いだされる悟りへの道と同じ過程です。

オットー・シャーマーという人は、今はMITの教師ですが、元はドイツのスパイ上がりの人で、U理論もその背景となるベースは非常に不明確です。彼自身「自分は実践派であり、自分の説は現場での経験値から生み出された」と述べています。何とも歯切れの悪いコメントですが、日本ではMITという名称が付くと諸手を上げて受け入れると行った有様です。彼自身はMITと云っても教授職ではなくシニアの教師なので、MIT自体では妥当な評価なのかも知れませんが、日本人の「劣等感」はこういった所で顕著に表れると慨嘆する次第です。やれスタンフォードとかハーバードとか中身よりも表紙でしか判断が出来ない教養では西洋からは馬鹿にされるばかりです。
私は国粋主義ではありませんが、もっと自国の知性に対して真摯でなければ、何時まで経ってもグローバル社会から大人扱いしてもらえないのは必定と云えます。この点においては戦前の日本の意思は再評価する必要があるのではないでしょうか。

ただ西洋の人達の方が「伝え上手」なのは間違いのないところです。U理論を始めとして西洋発の理論は概念を他者に伝えることを意図して非常に合理的にフレームとして纏めてあります。U理論の概念は日本の禅でも同様に概念化されています。一千年以上も前に「十牛図」というフレームで示されているので、気があれば容易に文献を入手することが出来ます。しかしこれが非常に難解な内容なのです。誰が読んでも腑に落ちるような内容になっていません。

ここに私は日本の本質的な問題が潜んでいるように考えています。いわゆるモノカルチャーな日本人は、価値観が比較的に同質で、ツーと云えばカー、とか阿吽の呼吸といって以心伝心的な世界を尊びます。そしてそれが「察する文化」を形成しています。一方西洋は人種も民族も宗教も異なったポリカルチャー(重層的な文化)が基本です。手招き一つとっても「あっちへ行け」と「こっちへ来い」が異なるような状態が共存している状態です。明確で正確な意思の伝え方が出来ないと命取りになりかねません。

こういったベースに流れる価値観や文化のあり方が、説得や意思の共有における言語のあり方や表現力に反映されていったのは間違いのないところでしょう。まさにバベルの塔の伝説です。

何れにせよ西洋の地政という環境的に錬成された伝え方の力が、様々なフレームの作り方やブランディングの作り方、そしてコンセプトの作り方の土台になっているのでしょう。

私は、これは一つの資産価値だと考えています。ヨーロッパの企業のデザイン力やブランド訴求力に始まってISOなどの規格力などソフトを商品価値として高める世界観は驚嘆に値します。

日本もグローバル世界に生きようとするならば、伝え方の力を身につけることが必要不可欠になります。そしてそれを磨くには自ら発信していく、リーチアウトしていく以外に有効な方法はありません。

但しそこには伝えるための意思が求められます。アイデンティティが無くては中身のない饅頭のようになってしまいます。実は日本人の問題は、戦後この饅頭のあんこを無くしてしまっていることにあります。もともとモノカルチャーで農業立国としての集団主義が基調で自己というあんこが薄い国民性がありましたが、敗戦によって薄いあんこ自体がGHQによって取り払われてしまいました。そういった戦後の日本人が概念形成や主張力に弱さを持つのは当然のことといえます。まずはそこから創り直す必要があるわけです。

 

<変えることと変えないことの見極めが大切>

ところで面白いのは、西洋の方ではポリカルチャーにおける伝え方がもたらす思考の限界を打破する動きにでているということです。西洋では論理を軸とする主張的に心を外延させることに傾倒する余り、伝え方には長けましたが、反面感受性を軸とした心情的な気持ちの通わせ方に鈍さを生み出してしまいました。例えば人の気持ちを推し量るとか、思いやる、察する、共感するといったコミュニケーションです。これは自己との対話もしかりです。これが内的には感情的なストレスを生み出したり、行間的な非言語領域での齟齬から却って感情的な怒りを生み出し、不要な紛争を生み出す悲劇を繰り返すことに繋がってしまっています。

そのためか西洋では今日本の心のたおやかさに関するブームが巻き起こっています。禅もしかりアニメもしかりです。エスニックの名の下に感情的交流のきめ細やかさや豊かさに焦点が当たっているわけです。

私的にはどちらも必要だと理解していますが、日本の側から考えるともっと伝え方を磨かなくてはならないことは否めないところです。にもかかわらず、日本では本来の強みとして有しているはずのレジリエンス力すらも自覚をせず、西洋の物真似技法を逆輸入的にありがたがって導入する始末です。まさに日本人は中身のない西洋化のデス・スパイラルに陥っている状態です。

私はグローバル化やダイバシティ化に突入した今において、西洋の良いところは学びつつも自国の持つ強みや意思はしっかりと錬成するというバランスを持った人や組織、社会の開発をしない限り、亡国にあると憂慮する限りです。

お互いに細かく意図が伝わりにくいのを逆手にとって、「まあ相手は他国の人だから」とばかりに、お互いに立ち入らないで済む場を求めて国際結婚をする人が続出する時代でもありますが、やはり日本人の持つ良さは世界に武器として示していきたいと私は切に思っているのですが。

 

さて皆さんは「ソモサン?」。